2017/11/04

就活で自己分析を行う前にすべき大切なこと





OpenClipart-VectorsによるPixabayからの画像 


やりたいことが分からない、好きなことが見つからない、と悩む若者が大勢いることはよく聞かれます。

Appleの創業者であるスティーブ・ジョブズは、スタンフォード大学での卒業スピーチで学生に向け、


「自分の好きなことに出会えば、心が自(おの)ずから分かる」


と語りかけています。

ただしこの主張は、自分の気持ちに正直に生きてきたジョブズだからこそ口にできた言葉であり、自分の気持ちを偽って生きてきた人や、親や社会の常識で物事を判断してきた人は、好きなことに出会っても分からないはずです。

例えば、親から肉体的精神的を問わず、虐待を受けて育った子供は自分を偽って生きています。

その理由は、自己の生存を親に依存し、逃げ場のない子供にとって、その理不尽な虐待を正当なものとして受け入れるより他なく親の虐待は正しいものである、自分が悪いから虐待をされている、親は自分を正すために行っているなどと考え、絶対的な親を擁護する原因を求めていきます。

しかし、潜在意識では自分は悪くないと思っているので、気持ちを偽っていることになります。

このように自分の気持ちを偽って生きてきた人は、自分の素直な感情を育めておらず、自分の気持ちを把握することや、自分を表現することが不得手なはずです。

また、虐待を受けた人たちは内に怒りを抱えており、自分のエネルギーをその怒りに消費したり、関係ない外部の対象に自分のエネルギーを消費したりするので、本当に興味を持つ対象に自分自身のエネルギーが向かわないはずです。

そのため、親から虐待を受けていた、もしくは受けていたかもしれない人は、親との関係を清算するのが先決です。

次に、社会通念上の常識である、良い学校に入学して良い会社に就職することが最良の選択である、ということを一度も疑ったことがない人も分からないと思います。

なぜか?

それは、自分の心で感じ、自分の頭で物事を考える習慣ができていない人だからです。

20世紀最高の物理学者で、天才の代名詞に用いられるアインシュタインの名言に、


自分自身の目で見て、自分自身の心で感じている人は、ほとんどいない。

Few are those who see with their own eyes and feel with their own hearts.



というものがあります。

この言葉は、強調しても、し過ぎることはありません。

人は、親を始めとして、学校・教師・テレビ・映画・書籍・友人など、多くのものから影響を受けて育っています。

影響力の大きい人のことを昨今ではインフルエンサーと呼びますが、この影響が度を超えた時、それは洗脳という表現に置きかわります。

親が言っていたから正しい、あの専門家が言っていたから正しい、あの有名人が言っていたから正しい、と考えるのは自然なことです。

それは、人間にとって模倣が学習の手段であり、また仲間外れにされる恐怖や、親から捨てられる恐怖があるためです。

しかし、それらインフルエンサーの発言に間違いがないとは言えません。

むしろホリエモンのように、1回のツイートで大金が転がり込んでくるような人物の発言は疑ってかかるべきであり、プライベートにしか思えないさりげないツイッター発言が、実はビジネスとして成立していた、ということはあり得ることで、不自然に強調していることは、より懐疑的に受け取る必要があるでしょう。

もちろん、あのインフルエンサーが日常で使っている私物のようだから試してみよう、あのインフルエンサーが面白そうに遊んでいるから使ってみよう、あのインフルエンサーのイメージに合う商品に惹かれたから購入してみよう、というのは、憧れといった気持ちを介した普通の行為ですが、あのインフルエンサーが言っているから正しいに違いない、と考えるのは危険なことです。

そして、もし受け手が精神的に未熟な時期であれば、それらの発言がごく自然な形で受容されていくことでしょう。

仮に疑っていたとしても、その発言の根拠を徹底的に自分で調べ、自分の頭で考える人以外は、「そうかもしれない」と心の奥底に刻み付けられてしまいます。

アインシュタインの言葉に次のようなものもあります。


常識とは、18歳までに獲得した偏見の集まりである。

Common sense is the collection of prejudices acquired by age eighteen.


この言葉も物事の本質を的確に表した言葉です。

文化が違えば常識が異なるのは当たり前ですが、親と子も別の人格であることを考慮すれば、親に反抗したことがない人も、自分で物事を考える習慣ができていない人になります。

本来、自分の考えや思想は、インプットしたものを経験や真理に合わせて換骨奪胎して作り上げるものであり、他人の考えをそのまま受け入れただけでは、それは借り物です。

たとえそれが親であっても、専門家であってもです。

親が間違っていることや、科学的な定説が覆されたことなど、いくらでもあるからです。

このように自分の頭で考えず、自分の心に正直に向き合わない人は、自分の考えがないのだから、自分の好きなことは分からないはずです。

もし好きなことがあるとすれば、それはそう思い込んでいるだけの可能性が高いと思われます。

心の奥底にいる本当の自分は、偽っている今の自分に気が付いているかもしれません。

ここまでを整理すると、自分の気持ちと向き合ってこれなかった人、向き合ってこなかった人は、好きなことに出会っても気がつかないでしょう。

ただ、親に一度も反抗したことがない人はほとんどいないと思いますし、まったく親の意向を無視して自分の心に正直に生きてきた人も少ないと思いますので、大抵の人が、程々に何かに洗脳され、程々に自分で考えて生きてきたと思います。

この、程々に洗脳されてきた部分を解放し、自分の目で見て、自分の心で感じるために何をするべきかを考えていきたいと思います。

それはまず、自分の受けた学校教育を否定することから始めるべきだと思います。

三度目の引用になりますが、アインシュタインは次のようにも語っています。


私の学習を妨げた唯一のものは、私が受けた教育である。

The only thing that interferes with my learning is my education.



正規の教育を受けて、好奇心を失わない子供がいたら、それは奇跡だ。

It is a miracle that curiosity survives formal education.


このようにアインシュタインは学校教育を否定しています。

アインシュタインがどのような教育を受けたのか分かりませんが、日本ではまず暗記偏重です。

近頃は、多くの大学が効果的にAO入試を導入したり、記述式問題をより重視していくといった方向ですが、教育や入試の在り方を抜本的に改革しない限り、記述式問題も含めて、客観的な基準を必要とする答えのある暗記偏重がまだまだ続くでしょう。

もちろん、思考の土台となる記憶は必須で、初等教育においては重要な意味を持ちますが、学年が上がるにつれては、必要以上の暗記よりも思考力を重視すべきだと思います。

アインシュタインが物を覚えていないことを人に問われたとき、「書いてあることをなぜ覚えるのか」と答えた逸話があります。

また、ノイマン型コンピュータやゲーム理論を発明したことで知られ、こちらも歴史上の天才として名前が挙がる、ジョン・フォン・ノイマンも、興味がなく不必要なことは全く覚えなかったと言われています。

暗記はGoogleに任せておけ、と言ったのは誰だか忘れてしまいましたが、的確な表現です。

ウェブ空間には膨大な情報量が記憶されており、それらはグーグルの検索で取り出せますし、グーグル自体大容量のクラウドサービスを提供していますので、暗記の必要性はこれからどんどん減っていくでしょう。

そんな時代に求められるのは、その情報の真贋を見分けたり、その情報を整理する能力であり、そのために必要なのは論理的な思考を養う訓練です。

そして、その論理によって組み立てた自らの主張や新しい価値の創造が、これから迎えるAI時代に重要になってくるでしょう。

従来の暗記に重点が置かれた勉強は、当然正解のあるものになります。

実際社会に出てから遭遇する困難や課題には答えがありませんし、自分の人生をどう生きていくのかという大問題にも答えはありません。

暗記の勉強でも、自分が興味を持ったり、疑問を持ったりしたものを提起するならまだ分かりますが、学習指導要領によって決められたものを一方的に与えられるだけです。

また正解主義は、間違いや失敗を恐れることへも繋がっていきます。

このように暗記中心の勉強は、考える力や好奇心がより育つとは言えず、失敗を避ける傾向の人間も作り出してしまうと思われます。

他には、すべての生徒が学力偏差値という物差しで測られてしまうことも学校教育の弊害です。

東大でも入学しない限り、自分は勉強ができない、頭が悪いという劣等感を植え付けられてしまいます。

スポーツや一芸に秀でていて、勉強とは関係ないと思われる生徒でも、潜在意識では自分は勉強ができない人間だと植え付けられているでしょう。

東京大学に入ったとしても、理Ⅲではないと自分を卑下している人もいるかもしれません。

学校の偏差値と賢さは比例せず、ましてや人間の価値や精神の豊かなどとは全く関係ありませんが、このことを自信を持って否定できる人は少なく、洗脳は強烈なものです。

旧制高校を廃止させ、アメリカでは採用していない偏差値教育を導入し、勉強を暗記に特化させ、考える人間を作り出さないようにしたGHQの方針を後生大事に守ってきた戦後の日本は、そろそろご破算にしなくてはなりません。

他にもあります。

学校では、教師に反抗的な生徒は嫌われます。もちろん理不尽な反抗は別ですが、各学校に存在する指定校推薦の枠を取るつもりなら、やはり素直な生徒のほうが印象は良いでしょう。

もちろん懐の深い先生や、愛のある先生も中にはいますが、和を重んじる日本では、自己主張するような異端児は大抵嫌われるので、権威に従う生徒ができやすくなります。

さらに学校は集団での教育のため、画一的にならざるを得ず、金太郎飴で他人に同調する生徒を産みやすくもなります。


ここで、日本の学校教育の弊害を整理します。


考える力がつかない。

好奇心を失う。

失敗を恐れる。

劣等感が身に付く。

権威に従う。

個性が生まれない。

他人に同調する。


知らぬ間に、このような人間に育っている可能性があります。

もちろん、学校に行かなければ出来ない経験も多く、読み書きソロバンという言葉もあるように、生きていく上で必要な授業や宿題は山ほどあります。

そして、社会の縮図である学校で学べることは沢山あります。

ただそれにしても、学校で身に付いた負の部分を見過ごすべきではなく、自分自身を取り戻すためには、この全身にこびり付いた分厚い殻をうち壊すショック療法が必要になります。

では、このような学校教育で身に付いた負の部分を改善するためには、何をすればよいのかを今から述べます。

すべての負は絡み合い、これを一夜にして改善させることは不可能ですが、まずは学校教育の一番の弊害である、勉強に対する劣等感を払拭し、自信を取り戻すことが肝要です。

そのためには、頭の悪い高学歴を探すことです。

東大の近辺で働けば、賢い賢くないは別として、まずは高学歴の東大生を見つけられる可能性が高いかもしれません。

ただその前に、頭の良さや賢さの定義をしなくてはなりませんが、ここでは未知の問題に対する解決能力と、奇抜な創造力としておきます。

では、実際に高学歴の人間が見つかったとして、仕事で賢さを計ることができるでしょうか?

それは少し難しいでしょう。

大抵の仕事で求められるのは処理の速さや要領の良さであり、それらは既存の解決策を当てはめるだけで、未知の問題解決能力を計ることはできません。

同じく、独創的な創造力も普通の仕事では求められず、計ることはできないでしょう。

そうすると、まず受験勉強を勝ち抜いた高学歴を探し出し、さらにその賢さを測るというのは、少しハードルが高いでしょう。

ですから、ここでは別の案を提示します。

それは、高学歴の人間が書いた、中身のない小説を読むことです。

ここで、医学部出身の作家を見てみましょう。


  • 森鴎外 東京大学医学部
  • 北杜夫 東北大学医学部
  • 帚木蓬生 九州大学医学部
  • 安部公房 東京大学医学部
  • 山田風太郎 東京医科大学
  • 加賀乙彦 東京大学医学部
  • 渡辺淳一 札幌医科大学医学部
  • 海堂尊 千葉大学医学部
  • 夏川草介 信州大学医学部
  • 今村友紀 東京大学医学部
  • 高尾長良 京都大学医学部

(敬称略)


などがいます。

では、明治の文豪である森鴎外をターゲットに……

なんてことを言うと、とんでもない非難を受けそうなので止めておきます。

日本では、いったん権威が確立すると、反論する人間が出てきません。

出てきたとしても、異端児として黙殺されてしまいます。

戦後の実験で、日本人は権威に従わないとする結果があるようですが、信長を筆頭に、秀吉や家康など多くの大名が源平藤橘の出自を気にしたのですから、日本の民衆は権威を恃む習性があり、戦後マッカーサーが、統治のために昭和天皇を退位させなかったことも、表向きの理由かもしれませんがそれを証明しています。

一方のアメリカは、あのアインシュタインでさえも、晩年は若手の研究者にやり込められたことが何度かありました。

それは、他人の論文を読むことをせず、最先端の知見を知らなかったという理由があるにせよ、権威を正当に批判し、それが評価されることは、日本の土壌ではあまり見られません。

お笑いのような破天荒さが求められる世界でさえも、ビートたけしさんなどの大御所を、「名前だけで食ってんじゃねーぞ、新しいギャグを頼むぞ!」などと、ぶった斬るトンデモナイ若手が出てこないことから、調和を重んじる社会なのは間違いないでしょう。

アメリカの大学教授は、たとえその業界に実績を残す大家といえども、新たな研究に基づく論文が求められると言い、日本とは大違いです。

太陽の塔で知られる岡本太郎さんは、日本で評価が確立している作家や作品を、芸術の観点から厳しく批判しています。

その言説が正しいのか間違っているのかは別として、このように自分を貫いた太郎氏は、多大な文化的影響を日本に残したのにも関わらず、日本国は勲章を与えませんでした。

国は、太郎氏を秩序の破壊者として捉えたのでしょうが、その解釈は一面では正しいものの、本人の真意は別にあり、社会システムに絡めとられた人間が、自由を取り戻すために行っていた発言です。

正当な自己主張を重じない社会は、表現力を求めない日本の学校教育に起因し、その根源が、江戸時代の封建的身分制度や官僚制、または稲作文化にまで遡るとする意見もありますが、時代は変化しています。

Webの発達により、個人が自己表現する手段を獲得し、各々が自由に生きていくことが可能となりつつある現代で、自信を持って自己を主張していくことは、ますます求められていきます。

バイトテロのようなバカッター行為や、道理に外れた教師への反逆といった歪んだ自己主張ではない、本当に自分の身体を張った、自らの責任において己の主張を貫く方法を教えていくためにも、学校教育を変革していかなくてはならないはずです。

では話をもとに戻します。

権威を正当に批判し、人間としての自信を取り戻すために、医学部出身の作家が書き、尚且つ有名な賞を獲得した作品に狙いを定めると、


安部公房の小説「砂の女」が最適になります。


読売文学賞を獲得し、多言語にも翻訳され、海外で広く読まれた作品になります。

彼が受けた教育は、創造性を阻む教科書秀才を産み出す契機となった学制改革の前ですが、東京大学医学部ということで焦点を当てます。

反論の余地がない故人ですので多少気が引けますが、個人攻撃ではなく作品と賞に対する正当な批判であり、ノーベル文学賞の候補にまでなったそうですから、有名税として批判させて頂きます。

ご本人は、無位無官の私に批判されても、草葉の陰で笑っておられることでしょう。

では早速作品を吟味していきたいと思いますが、その前に注意すべきことが3つあります。

1つ目は、権威を叩くことで自分を大きく見せようとするとか、権威を叩く格好いい俺、のような陶酔した態度では、作品の正当な評価はできません。

2つ目は、もしかしたらその作品に、自分が読み取れない深遠な哲理が隠されている可能性があります。

人間とって、目に見えないもの、聞こえないもの、匂わないものであっても、存在しているものは幾らでもあります。

微小なウイルスや細菌は見えず、高い周波数である超音波は聞こえず、昆虫が分泌する各種フェロモンは匂わず、人間に知覚することはできませんが、間違いなく存在しています。

3つ目は、作者が意図していないことを読み取れる感受性の鋭い人と、何もない作品に、表象するものを無理くりこしらえる人が存在することです。


それらを考慮した上で、「砂の女」を読んでみます。


内容は、砂丘へと昆虫採集にやって来た教師の男が、砂穴の底にある一軒家に閉じ込められ、様々な手段で脱出を試みながら、そこに住む一人の女と奇妙な共同生活を続けていく話です。

話の筋は不条理であり、自由を希求する人間をシニカルに描いています。

作品の冒頭には


罰がなければ、逃げるたのしみもない


という意味深な言葉が記されていますが、本作のテーマは自由なので、罰があるから楽しいとする心理は、囚われていることが楽しいことだと解釈して読み進めていきます。

ただ、著者本人が語っている、砂のように捉えがたい人間や現代社会とは何を指しているのかが不明であり、砂の流動性に、仏教の諸法無我や易経の変易のような思想を見いだすこともできません。

むしろ人間は、常識・お金・人間関係などの社会システムや、欲望といった煩悩に雁字搦めにされており、そこから解放されるため、自由を希求するのであれば理解はできます。

主人公は、閉じ込められた砂穴の底でもがき続けますが、最後は半年ぶりに縄梯子が掛けられ、地上に這い出ることに成功します。

ただ、あれほど熱望していた地上への帰還だったにもかかわらず、主人公は結局逃げません。

それは、罰がないから逃げない、という冒頭に帰るのですが、囚われているから逃げるのであれば、社会システムや煩悩から人間が抜け出せておらず、無条件な自由を希求する人間の肯定には繋がらないことになります。

さらに言えば、罰のある行動が楽しい、自由を得られずに囚われている姿が楽しい、となると、そこにあるのは絶望的な諦念でもありません。

自由を得られない滑稽な人間の姿を描き、そこを突き詰めて絶望する姿や、絶対的な自由を獲得する姿に昇華する話であれば文学的な意義も見出せますが、本作はそうではなく、上段から人間を嘲弄した単なるシニシズムしか描けていません。

ここには、絶対的な生の肯定もなく、罰がなければ、逃げるたのしみもない」という冒頭の文章は、結局は、「脱出できるのに逃げない」、という一種お決まりの形式に流れた最後を表すためだけに存在しているのでしょう。

ここまで分析しなくとも、作品を読んで魂に触れてくるものはなく、順応、孤独、極限状態と様々な解釈がありますが、取って付けたものにしか聞こえず、ただその状態を表しているだけに過ぎません。

ノーベル文学賞に近かったと言われる安部公房ですが、文学賞が、平和賞と共に胡散臭いものであることに人々は気付き始めています。

紛争や戦争に関与してきたキッシンジャーや、地球の温暖化をCO2によると捏造したゴアが受賞し、演説をしただけで何もしていないオバマが、というよりも在職中に世界中で数万発の爆弾を降らし、それを偽装するために賞を与えられた戦争屋の傀儡・オバマのケースを考えると、昔からノーベル賞の多くは、その背後にいるディープステートの思惑通りであることは明らかです。

高尚な他人の解説、作品への高評価、東大医学部という高学歴、世界的な名声をすべて抜きにして、直截に「砂の女」と接したとき、この作品からはペダンチックやスノビズムしか感じることができませんでした。

不条理の作品は、話の筋が通っていないだけに、はったりや誤魔化しが行え、後付けの解説が幾らでもできます。

皆さんも、是非自分の目で見て、自分の心で感じてください。

この作品が、日本文学の最高傑作と呼ばれていることの不条理さこそが浮き彫りにされ、ただしそのことをシニカルに捉えるのではなく、そんな欺瞞に満ちた社会でさえも、なお我々は力強く生きていかなくてはならないことを確認するうえで必読の書と言えるでしょう。

むしろ本作は、そのことを逆説的に表しているようです。

本書を読み、下らない勉強への劣等感を払拭し、「砂の女」が表現できなかった自由な人間性を取り戻し、自信を回復してください。

他の医学部出身の作家の作品でもいいですが、受験勉強とは、何の独創的な創造や発想力も必要とせず、答えそのものと解答方法を覚え、正解のある問題を時間内に人より多く解いただけのことです。

何も私は伊達や酔狂でこんなことを言っている訳ではありません。もちろん医学部といった高学歴の方々を貶めたいからでもありません。私自身、幼い頃から今に至るまで何度も病院に通い、医師や西洋医学に助けてもらいましたし、子供が産まれてからは、診療が休みの日にも対応をしてくださった、町のおばあちゃん先生に本当にお世話になったように、感謝こそすれ恨みがあるわけでもありません。また、子供が小さいときに参照していた、松田道雄医師の書籍「育児の百科」の知識や行間から滲み出る愛情に助けられてもいます。

しかし、医学部を頂点とした受験制度や現状の教育システムは、多くの不幸な人間を生み出しており、間違いなく変えるべきなのです。

確かに、物事の処理を素早く済ませるという意味であれば、東大生は優秀なはずです。

受験とは、決められたことを素早くそつなくこなすことであり、従来の会社組織で最も求められていたことであり、現代の組織でもデフォルトで求められていることだからです。

ただし、仕事の出来ない東大生、林修先生が著書で語っている残念な東大生が存在していることから、その従来の優秀さを基準としても、東大生イコール優秀であるという図式は成り立たず、受験勉強によって、必ずしもその能力が開発されるとも言えないということです。

つまり、着眼点が飛躍する独創的な東大生がいたとしたら、それは東大生だから優秀なのではなく、ただその東大生が優秀なだけなのです。

天才と言われるアインシュタインが学校教育を大々的に批判し、しかも学業の成績が悪かったことを考えれば、学校の成績と知性は相関しないことが理解できるはずです。

俗に言う、「学歴と地頭は関係ない」という言葉そのものであり、そんな18、19歳のときの結果に引け目を感じることから解放されるべきなのです。

自信を回復した後は、好奇心と行動力を持って色々なことにチャレンジし、熱中できることを見つけるだけです。

学校教育でこびり付いた殻を打ち破れば、心は感度がよくなっているはずです。

何でもいいので、様々な対象に自分の心と身体をぶつけ、そこから何かを感じとる自分を発見するのです。

答えはあなたの心が知っていますので、出会えば分かるはずです。

見つかった好きなことでお金が稼げるかは一先ず置いておき、見つけることが先決です。


目的を見つけよ、手段は後からついてくる

Find purpose, the means will follow.


インド独立の父 マハトマ・ガンジー



ではないですが、人生を賭けられるものを必死に探し、自分にとっての人生の目的を見つけましょう。

ということで、これから就職活動に挑む学生が、自己分析や業界分析を始める前に真っ先にやるべきことは、学校教育で身に付いた負の遺産を破壊することです。

そして、やりたいこと、夢中になれるものを見つけられたとしたら、人生の目的が半分は達成されたと言えるでしょう。


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