2017/07/22

坂本龍馬はスパイではなく英雄だったことを数々の手紙の内容から結論付ける



坂本龍馬
高知県立歴史民俗資料館



目次 読了時間20分


  1. 近頃の龍馬に対する批判的な評価
  2. 龍馬の残した手紙
  3. 通貨発行権など国家の礎となる財政について言及
  4. 攘夷と開国を両立させる尊王開国の思想
  5. 死生観
  6. ひょうきんな一面とその志
  7. 武器商人としての龍馬
  8. 極端な尊王思想
  9. 龍馬が脱藩した3つの理由
  10. 長州に根付く吉田松陰の教え
  11. 幕臣・勝海舟の門弟となる
  12. 薩摩藩の庇護を受ける
  13. 内戦を避ける大政奉還の成立に奔走
  14. 資金繰りに苦しんでいた亀山社中
  15. 外国人に対する記述
  16. ジャーディン・マセソンの背後にいたサッスーン財閥とロスチャイルド
  17. 中央銀行の設立に深く関わった大蔵少輔・伊藤博文
  18. 吉田松陰と伊藤博文の関係性
  19. ロスチャイルドと繋がるマシュー・ペリー
  20. 日本の植民地化をあわよくば目論む諸外国
  21. 日本が一つに結束してしまう新政府綱領八策
  22. 龍馬の新国家に対する想い




1 近頃の龍馬に対する批判的な評価




「グラバーの手先でしょ」

「単なる武器商人なんだよね」

「フリーメイソンに入っていた怪しい奴だろ」

「イギリス勢から資金援助をしてもらっていたんだよね」


「ロスチャイルドに操られていたみたいだよ」



以上は龍馬について最近よく言われることです。

薩摩や長州ら官軍が善で、幕府が悪という従来の一方的な史観を改め、明治維新を見直す機運が高まるにつれ、龍馬の評価についても賛否が別れるようになってきました。

歴史小説の「竜馬がゆく」で描かれた、一個の快男児坂本竜馬に対する反動もあるようですが、とにかく識者が再評価する坂本龍馬は批判的なものが多いようです。


一体、坂本龍馬とはどのような人物で、どのような目的で行動していたのでしょうか?


その手掛かりを求めるのは、やはり本人が発した言葉を調べるのが一番です。

当時は映像を保存する技術がないため、龍馬の肉声を現在に伝えているのは手紙になります。

もちろん、第三者の証言や歴史上の客観的な出来事も重要ですが、本人の残した文章こそが、本人の心の内を物語っているはずです。

少し話は逸れますが、天才アマデウス・モーツァルトの現在に残された手紙を読んでみると、内容もさることながら、その形式は文字が突然逆さになるなど、奔放な精神が見てとれます。

モーツァルトの自由で囚われていない音楽は、この奔放な精神から生まれていることが分かります。


このように一次情報に触れ、自分の心で感じ、自分の頭で考えることはとても大切なことです。


では話を本題に戻し、龍馬の手紙を見てみましょう。



2 龍馬の残した手紙



龍馬が実際に書いたと伝わる手紙は、2017年に新たに発見されたものを含めて約140通で、姉の乙女や志士たちに宛てたものの多くが現存しています。

なお本記事は、一次情報である原文を極力使用し、「全書簡現代語訳 坂本龍馬からの手紙 宮川 禎一 教育評論社」の現代語訳と照らし合わせながら進めていきます。

では、坂本龍馬の実像を探るべく、幾つもの手紙を解析していきましょう。


「天下大変」

「一人の力で天下うごかすべきハ、是又天よりする事なり」

「天下の事」

「天下国家」

「天下の大幸」

「国を開く」

「国家之御為」

「天下の大議論」

「天下の為」

「国家の為骨身をくだき」

「国家ニ尽ス」



このように、手紙には
「天下」や「国家」の言葉が頻繁に出てきます。

しかし、当時の武士は猫も杓子も尊皇攘夷や佐幕開国を論じており、龍馬だけ特別に国家のことを考えていたわけではありません。

よって、この多用された言葉により、龍馬が他の志士よりも日本の行く末を見据えていたとは言えません。




3 通貨発行権など国家の礎となる財政について言及



ですが、大政奉還の前夜、徳川慶喜が将軍職を返上しなくても、江戸の銀座を京都に移すのを認めさせ、通貨発行権だけでも奪うことで実質的な政権移譲が行われるよう、後藤象二郎に手筈を示している手紙があります。

また、大政奉還後にわざわざ罪人として幽閉されていた福井藩の三岡八郎を訪れ、新政府の財政について議論を闘わせ、この三岡を新政権の財政担当に起用するよう後藤象二郎に薦めている手紙もあります。

そして三岡、後の由利公正は、明治新政府の財政担当に採用され、重要な役割を果たしています。

このように、脱藩浪人に過ぎない龍馬が、国の根幹に関わる国家財政について真剣に考えていたことは、これから考察する後ろ楯があったとしても、新政府側のキーパーソンであり、新生日本に対して詳細な絵図を描いていたと言えるでしょう。



4 攘夷と開国を両立させる尊王開国の思想



「日本を今一度せんたくいたし申し候」



この有名な洗濯の手紙は、脱藩して1年3ヶ月後、勝海舟の門人になってから数ヶ月後のもので、前後の文は、幕府の役人が裏で外国人と通じていることに憤慨し、朝廷を中心に据えた国造りが必要であることを述べており、龍馬の尊王攘夷の思想が垣間見える、29歳のときの姉の乙女に宛てた手紙になっています。

このように尊王攘夷に懸ける一方で、

文九三年八月十九日の、こちらも同じく龍馬が29歳のときの、親戚である川原塚茂太郎に宛てた手紙には、



「勢二よりてハ海外ニも渡り」と脱藩前に私は宣言していましたよね、


との文言があり、龍馬の想いは、脱藩前から攘夷一辺倒ではなく、遠く海外にまで広がっていたことが分かります。

攘夷と開国。

この相反する想いを共に重視する、柔軟な考えを持っていたことが読み取れます。

そしてこの思想は尊皇開国と言われ、龍馬も師事していた佐久間象山が唱え、その弟子の吉田松陰や勝海舟も同じ考えを持っていました。



5 死生観




「私が死日ハ天下大変にて」

「人間一生実ニ猶夢の如し」

「命さえすてれバおもしろき事なり」

「露の命ハはかられず」



これらの言葉からは、龍馬の死生観が窺えます。

同じ土佐藩出身の、吉村寅太郎や那須信吾らが天誅組の変で命を落とし、望月亀弥太や北添佶磨らが池田屋事件で新選組に斬殺され、龍馬も国許で属していた土佐勤王党の武市半平太らが、藩の理解を得られずに切腹させられたことなど、龍馬が知っていたことは手紙から分かりますので、明日は我が身であることを意識し、死を覚悟して日々生きていたことは間違いありません。



その一方で、


「中なかこすい いやなやつで死ハせぬ」

「つまらぬ事にて死まいと、たがいニかたくやくそく致し候」

「人と言ものハ 短気してめつたニ死ぬものでなし」



とここでも、死を覚悟はしているが、生を大事にするという、死と生の相反する思いを共に重視していたことが窺えます。



6 ひょうきんな一面とその志




「運の悪いものは風呂よりいでんとして、きんたまをつめわりて死ぬるものもあり」

「エヘン、エヘン」


「ヘボクレ役人や、あるいハムチヤクチヤをやぢ」

「べちやべちやシャベクリにハ、ホ、ヲホ、ヲいややの、けして見せらるぞへ」

「ヘチャモクレ」

「修羅か極楽かに御供申べくと存じ奉り候」



これらは、龍馬のひょうきんな一面を覗かせています。


「何の志ざしもなき所ニぐずぐずして日を送ハ、実ニ大馬鹿ものなり」

「一生うちニおりて ぬかみその世話致すハいやと存候バ」



これらからは、龍馬が志を持って行動していたことが分かります。

維新三傑の一人である長州の木戸孝允(桂小五郎)とは、多くの手紙のやり取りが残されており、強い絆で結ばれていたことが分かります。

本趣旨とは離れますが、桂から見た龍馬は、



大兄はその心が公明で、度量が寛大なのは良いですが、とにかく用心というものをお持ちでない方です


引用 増補改訂版 全書簡現代語訳 坂本龍馬からの手紙 宮川 禎一 教育評論社 


とあります。

桂のこの評価は、龍馬の扱っている武器や、背後にいるグラバーらに連なる英国勢力に対するおべっかなのか、日本を変えていく同志としてのエールなのか、本心なのかは、手紙では分かりません。




7 武器商人としての龍馬



武器商人との批判については、まず龍馬が武器を扱うことになった理由にまで遡り、考察してみましょう。

龍馬は28歳のときに脱藩をしましたが、その詳細な理由は残された手紙を読んでも分かりません。

当時、藩を飛び出すことは親類縁者にも塁が及ぶ重罪で、かつ食い扶持を失うわけですから、苦悶は相当なものであり、脱藩にはそれを上回る理由が必ず存在します。

龍馬にとって、その理由は何であったかを推測してみます。

そもそも、当時の武士たちが騒いでいた理由は、まずアヘン戦争で中国がイギリスに敗れたことを知ります。

その後、ペリーの黒船など諸外国の強大な武力を背景にした来航を前にし、日本中が恐れをなし、うろたえます。

そして、政権を担う幕府は、各国の開国要求に対して日米和親条約を結び、その数年後、朝廷の許可を得ずに不平等な安政の五カ国条約を結び、この国はこれからどうなっていくのだろうという危機感も増していきました。

また、条約で定められた不均衡な通貨交換比率により、日本国内の金が流出し、著しい物価の上昇が起きたことも一つの要因としてありました。

これらの端緒となったペリーのアメリカ艦隊来航の折、剣術修行のために江戸へ遊学をしていた19歳の龍馬も、品川で警備の任務に就いており、そのとき土佐にいる父に対し、もし戦争が起きたならば、


「異国の首を打取り」


と、勇ましい内容の手紙を送っています。

この記録に残る龍馬最古の手紙から、脱藩するまでの9年間に、どのような思想を形成していったのかは残された手紙からは分かりません。



8 極端な尊王思想



ただ、脱藩から1年3か月後の29歳のときの手紙には、


「朝廷というものハ国よりも父母よりも大事にせんならんというハきまりものなり」


とあり、極端な尊王思想を持っていたことが分かります。


龍馬が国許で属していた土佐勤王党の盟約文にも、


堂々たる神州、戎狄の辱しめを受け、古より伝はれる大和魂も今は既に絶えなんと、帝は深く歎き玉ふ。



と尊王攘夷を謳う格調高い名文が掲げられているように、水戸学の流れを汲む思想が浸透しており、龍馬がそれらの影響を受けていたことは、疑う余地もありません。

尊皇攘夷という思想は、水戸学の他に、江戸時代中期に勃興した国学や、幕末に最も読まれた歴史本「日本外史」において、幕府の正統性が示されていなかったことなどにより全国に伝播され、それらが当時の武士たちの江戸遊学や諸国行脚での自由闊達な議論のもとで純化されていったと考えられますが、龍馬がこの思想に染まり、国のために立ち上がらなければならないと考えていたことは間違いないでしょう。

しかし、土佐藩の下級武士である龍馬たちが、藩論を尊王攘夷に変えるのは難しいことでした。

また、文九三年八月十九日の、こちらも同じく龍馬が29歳のときの、親戚である川原塚茂太郎に宛てた手紙には、現代語にすると次のように記されています。


また以前から茂太郎さんのおっしゃっていた「土佐一国の中だけで学問すれば一国だけの論を出ないものだ。そうではなく世界に出てわたり歩けばそれだけ目を開き、自分で天から受け得た知を開かなければならない」(つまり広い世界を見てこい)というご持論は、今でも私の耳に残っております。


引用 増補改訂版 全書簡現代語訳 坂本龍馬からの手紙 宮川 禎一 教育評論社



このような想いを持っていた龍馬の脱藩は、必然であったと言えるでしょう。



9 龍馬が脱藩した3つの理由



ここで龍馬が脱藩した理由をまとめると、


一つ目は、朝廷を中心とした強い国を創らなければならないという想い。

二つ目は、その尊皇攘夷への想いは、土佐にいては実現できないこと。


三つ目は、広い世界に身を置きたいという想い。



だと推測できます。

さらには、龍馬は脱藩の直前に長州の萩へと趣いており、久坂玄瑞から武市半平太宛ての書状を受け取っていますが、その内容の一部は、


諸候たのむに足らず、公卿たのむに足らず、草莽志士糾合義挙のほかにはとても策これ無き事と、私ども同志うち申し合いおり候事に御座候。失敬ながら、尊藩(土佐藩)も弊藩(長州藩)も滅亡しても大義なれば苦しからず。両藩共存し候とも、恐れ多くも皇統綿々、萬乗の君のご叡慮相貫き申さずしては、神州に衣食する甲斐はこれ無きかと、友人共申し居り候事に御座候。


とあり、
志を持つ在野の人々が立ち上がり、たとえ藩が潰れても日本の朝廷を盛り立て、強い国を創らなければならない。このように久坂に説かれたことが、脱藩に影響したとも言われています。



10 長州に根付く吉田松陰の教え



在野の人間が立ち上がるとは、吉田松陰が弟子たちに説いて回った草莽崛起(そうもうくっき)の教えであり、さらにこの久坂の書状には、幕藩体制の終焉と、朝廷を中心とした国民国家への萌芽が認めら、特筆すべきものです。

自分の属する藩が潰れても構わないとの考えは、この当時では明らかに過激ですが、それほどまでに藩や身分を超えてこの国をなんとかしなければならない、という共通認識を長州藩の志士たちは持っており、各藩の志士に影響を与えていったことが推測されます。

そして、1862年の3月に龍馬は土佐を脱藩しました。

脱藩後に諸国を訪ね歩いたようですが、詳しい足取りは手紙からは分かりません。



11 幕臣・勝海舟の門弟となる



そして脱藩から7ヶ月後に、幕府の軍艦奉行並であった勝海舟の門弟になります。

先ほど見てきたように、龍馬は尊皇攘夷の思想に染まっていましたが、海外に目を向ける柔軟さも持ち合わせていたため、幕臣である勝の弟子になることも厭(いと)わなかったのでしょう。

それでも手紙には、幕臣のところで学んでいることは内緒にしておくれ、との文言が見られます。

もっとも勝海舟も、幕府を通り越して日本の行く末を考えていた、開明的な人物の一人でありました。

一般によく言われる、一介の脱藩浪士に過ぎない龍馬が、雄藩の主要な武士、各大名、身分の高い幕臣と付き合えたのは、グラバーという後ろ楯があったからだとする意見がありますが、この時期の龍馬はまさに素浪人であり、当てはまりません。


勝海舟との面会には、前福井藩主である松平春嶽からの紹介があったようですが、素浪人の龍馬が、直談判か誰かから紹介状を取り付けて元大名の春嶽との面会を果たし、そこから幕府高官の勝海舟と出会い、その門弟に収まり、手紙にも書かれているようにやりたいことであった海軍の修行をし始めているのですから、龍馬は明確な目的意識を持ち、それを具現化する行動力を備えていた証であり、また勝海舟も、身分や思想に囚われず、広く人材を受け入れることのできる度量の広い人間であったことが分かります。

また、この時期の手紙には、他藩の志士と積極的に交流している様子がうかがえ、幕末の志士たちは横の繋がりが盛んであったことが分かります。

龍馬は、海舟の立ち上げた私塾である勝塾で学びながら、神戸海軍操練所の創設に奔走し、航海術の修行に打ち込みますが、操練所は1年たらずで閉鎖されてしまいます。




12 薩摩藩の庇護を受ける



その後、龍馬は塾生たちと共に薩摩藩の庇護を受け、豪商・小曽根家などの支援により、日本で最初の商社といわれる「亀山社中」を1865年に設立します。

勝海舟の口添えがあったと言われていますが、薩摩藩は薩英戦争を経験したことで軍艦の必要性を痛感しており、海軍と航海術を学んだ龍馬たちを求めていました。


龍馬の手紙にも、


「仕合セにハ 薩州にてハ 小松帯刀、西郷吉之助などが如何程やるぞ、やりて見候へなど申くれ候つれバ」


「幸いなことに、薩摩藩の小松帯刀や西郷隆盛などが、坂本龍馬の航海術はどれほどの実力なのか、やってみせてくれ、と言ってくれた」


とあります。


本来であれば、尊王攘夷の牙城であり、いくつかやり取りの手紙が残る、盟友・池内蔵太が身を寄せる長州藩の世話になってもよさそうなところですが、この時分の長州藩は幕府による長州征伐の備えのため、そのような余裕はなかったと思われます。

こうして薩摩藩と豪商の援助で出来た亀山社中は、龍馬のやりたいことであった、蒸気船などを用いた私設海軍と海運・貿易会社として出発しました。

そしてここから、外国商人と取引が禁止されていた長州のために、薩摩名義で武器と軍艦を購入して長州に受け渡すことで薩長同盟の足掛かりを作りますが、長州と同じような極端な尊皇攘夷の思想を持つ龍馬にとって、同志の長州を助けることは何ら不思議なことではありません。

龍馬が武器を扱うようになったのは、同志としての長州が幕府と闘うために必要だったからであり、龍馬自身も、長州のために購入したユニオン号に乗り、下関で幕府と闘っています。


このように見ていくと、龍馬が長州を後押しするのは自然な流れであり、幕府に対抗する長州へ、小銃やユニオン号を横流しするためにグラバーら外国商人と手を結んだのは、攘夷を抑えて尊王を取ったとも言えるし、大攘夷、つまりはまず外国の優れた技術を取り入れて富国強兵を図り、外国と争うのはその後だする尊皇開国の考えを推し進めたとも言えるので、日本を外国に売り渡したとか、単なる武器商人との見解は当たらないでしょう。



13 内戦を避ける大政奉還の成立に奔走




また、龍馬は武力倒幕を否定してはいませんでしたが、最後の最後には内戦を避ける大政奉還の実現に奔走しています。

以下は、土佐藩参政である後藤象二郎に送った手紙で、大政奉還に関する緊迫した内容を伝える一部です。


「御相談被遣候建白之儀、万一行ハれざれば固より必死の御覚悟故、御下城無之時は、海援隊一手を以て大樹参内の道路ニ待受、社稷の為、不戴天の讐を報じ、事の成否ニ論なく、先生ニ地下ニ御面会仕候」


「大政奉還が万一行わなければ、必死のご覚悟である後藤先生は二条城で切腹したとみなし、海援隊一同は参内する慶喜を待ち受け、天下国家のため、不倶戴天の敵に復讐するつもりです。事の成否に関わらず、先生とはあの世でお会いすることになるでしょう」


と並々ならぬ決意が見て取れます。

結局大政奉還が実現したため、岩倉具視や大久保利通らが企てた討幕の密勅が大義名分を失い、倒幕派は挙兵のきっかけも失いました。

当然戦争がなければ武器は売れないため、龍馬が単なる武器商人であったとの見解は当てはまりませんし、グラバーら外国武器商人の手先とする見解も当らないように思えます。

実際戊辰戦争は行われましたが、拡大せずに短期間で終えたため、欧米列強からの干渉は避けられ、後にグラバー商会は倒産してしまいました。

他には、銃の取引に関するもので、騎兵銃の値段が法外で申し訳ないとの手紙もありますので、露骨にお金儲けをしていたわけではなさそうです。



14 資金繰りに苦しんでいた亀山社中




イギリス勢から資金援助を受けていたとされることについては、四境戦争後に、ユニオン号が長州に引き渡されることとなり、海運業の元となる蒸気船を失うため、多くの仲間を一旦解雇せざるを得ない状況に陥ったことを伝える手紙があり、そこには、泣いて別れを惜しむ者たちもいたことが書かれています。

また、慶応三年六月二四日の乙女・おやべ宛の手紙には、お金儲けを咎められられたことに対する返答なのか、稼ぐことは、脱藩浪人の集まりで食い扶持のない海援隊士を食わしていくために必要だと弁解しています。

その手紙には、亀山社中が土佐藩に属して海援隊になってからも、藩からは一銭の援助も受けていないことが記されています。


他の手紙には、着る服の少ない海援隊士のために、お金を用立てるお願いをする内容のものもあります。

龍馬の手紙からは逸れますが、岩崎弥太郎の日記には、海援隊士が金の無心に来ることが書かれていたり、佐々木高行の日記には、海援隊が貧乏であることが書かれていたりと、資金繰りに苦労していたことが分かります。

このことから、外国商人やイギリス勢から資金援助を受けていたとは考えにくいように思えます。


15 外国人に対する記述




外国人に関する記述ですが、トーマス・ブレーク・グラバー、フリーメイソン、ロスチャイルドの直接的な記述は出てきません。

しかし、慶応元年(1865)九月九日の手紙で、土佐出身の同志が一人イギリスに留学し、他にも日本からすでに30人ほどがイギリスに渡り、学問の修行に打ち込んでいるのは良いことだ、との記載があります。

今まで見てきたように、龍馬には相反する性質が同居しており、清濁併せ呑むことができる人物だったと考えられ、この手紙から分かるように、この頃はすでに単純な攘夷を捨てています。

そして、この手紙に記された留学生とは、伊藤俊輔ら長州五傑(長州ファイブ)や、五代友厚ら薩摩藩遣英使節団のことであり、この渡英を手引きしたのはイギリスの商人グラバーであり、外国人たちと近い関係にあったことはこの手紙から分かります。


また、銃を千挺購入するため、外国人の商館へ行くところだ、との手紙もあります。

龍馬は、長州を支援するために武器を扱っていたのですから、外国武器商人と繋がっていたのは、当たり前と言えば当たり前です。

他にも、龍馬らが伊予大洲藩から借りていたイロハ丸が、瀬戸内海を航行中に紀州藩の明光丸と衝突し、沈没させられた事件の交渉に、英国海軍の提督が参加する旨の内容が書かれた手紙も残されています。

ただし、慶応三年(1867)に起きた英国船イカルス号の水夫殺害事件に関し、海援隊士が犯人と疑われ、龍馬がその対応に追われている手紙が残っています。

外国勢と懇意にしていたら、疑われることもないように思えますが、どうなのでしょうか。



16 ジャーディン・マセソンの背後にいたサッスーン財閥とロスチャイルド




ちなみにグラバー商会は、南北戦争では武器、中国ではアヘンを売りつけて荒稼ぎをしたジャーディン・マセソン商会の長崎代理店であり、その背後いたサッスーン財閥から、国際金融資本のロスチャイルドに繋がります。

そして、武器商人のジャーディン・マセソン商会が、日本でも同じように稼ごうとするならば、幕府に対抗する勢力を作り出して支援をするはずで、同じ時期に、関ヶ原の戦いで破れた雄藩の薩摩と長州の者をイギリスに密航させているのは、両者を繋ぎ合わせる目的があった可能性を示しており、またそれは、グラバー一人で詳細な絵図を描けるはずもなく、英国で世話をしたジャーディン・マセソン商会が、幕府に対抗する勢力を作り出す意図を持っていた可能性は高いでしょう。

伊藤博文ら長州ファイブ一行は、ロンドンでヒュー・マセソン社長直々の歓待を受けており、薩長同盟はその延長線上にあったと考えられます。

なお、長崎のグラバー邸にはフリーメイソンのシンボルマークを刻んだ石柱がありますが、これは後から移築されたもので、グラバー自身は加入していなかったと言われていますが、その後の田布施町の者たちの活躍を考慮すると、倒産はある種の偽装で大金を使った工作をしていたと考えられます。

また、ジャーディン・マセソン商会の横浜支店長は吉田健三であり、その養子の吉田茂が、戦後日米安全保障条約を勝手に一人で結び、日本独立後もなお米軍を駐留させ、日本をディープステートに支配されたアメリカに差し出したのも偶然ではないでしょう。

よって、グラバーも国際金融資本の下部組織とされるフリーメイソンに加入しており、密命を帯びていたと考えるのが自然であり、伊藤博文は、渡英時にフリーメイソンに加入したと言われ、さらには孝明天皇を暗殺した実行犯と考えられ、この辺りをどう判断するかで明治維新の評価はまるで変わってきます。



17 中央銀行の設立に深く関わった大蔵少輔・伊藤博文



伊藤博文は、国の機関ではないにも関わらず、国立銀行という名称の通貨発行権を持つ民間銀行の発案もしています。

当時の日本が国を興していくためには、多くの銀行が必要だったことは間違いありませんが、明治新政府は当初政府紙幣を発行していました。それをあえて民間の銀行に通貨発行権を与えるよう変更した理由は、兌換紙幣の発行や貨幣価値の安定を図るためだったと言われることもありますが、これは新円切り替えなどで対応できることであり、通貨発行権の主体を政府から民間銀行に変える理由にはなりません。

また、伊藤の提唱は、中央銀行型であったイングランド銀行方式ではありませんでしたが、後の民間中央銀行へ繋がった発端を作り出した点を考慮すると、やはり国際金融資本の息が掛かっていたと考えられます。

よって、日清戦争も勝海舟が大反対したようにする必要のない戦いであり、武器商人を儲けさせ、アジアの結束を妨害し、諸外国による中国への侵略を加速させる契機になった点を強調すべきでしょう。

日露戦争についても、ディープステートの天敵・ロマノフ王朝を倒すために嗾(けしか)けられ、ジェイコブ・シフから、莫大な借金を日本が背負わされた点をもっと強調するべきです。

このとき借りた戦費を日本が返済し終えるのは、第二次世界大戦後のかなり後になってからなどと言われており、真相はどうあれ、当時少なくとも、歳入の何倍もの巨額資金を外貨建てで借り、その利息などを含め、国際金融資本と武器商人を大儲けさせた事実に変わりはありません。

よって、維新後の日本が、大陸へと進攻していく契機となった日清戦争開戦時に、伊藤博文が総理大臣であったことも偶然にしてはならず、また日露戦争開戦時、政界に隠然とした力を持っていた伊藤が戦争回避に動いていた話も鵜呑みにしてはならないでしょう。



18 吉田松陰と伊藤博文の関係性



維新後の日本が戦争を繰り返してきた理由として、大陸を攻め取ると主張した松陰の影響を、伊藤博文や山県有朋らが濃厚に受けていたからとする説が占めていますが、これは誤りでしょう。

確かに松陰は、獄中で記した「幽囚録(ゆうしゅうろく)」において、カムチャッカやオホーツクを奪い取り、朝鮮に貢納(こうのう)させ、満州の地を割き取り、台湾やルソンの諸島をわが手に収め、と過激な事を述べています。

ただしこの主張は、幕吏(ばくり)の体たらくと、蒸気船といった軍艦を持つ諸外国に対する危機感と、東端に接する大国ロシアから侵略されることの恐怖からであることは、本文を読めば分かります。

国家存亡の危機に立たされていた幕末と、日清戦争時の状況はまるで違い、また戦闘者である武士が、やらなければやられる状態において、気持ちだけでも坐して死を待つことのほうが奇妙でしょう。

そもそものところ、伊藤博文は来原良蔵や長井雅楽と比べて松陰を低く評価しており、また本人自身が、当時の攘夷論は精神から出たもので、政略から出たものではなかったと語っているように、その通りだからです。

せめてその政略を立てられるようにするため、西洋の技術を学ぼうとしたのが松陰であり、海外に渡りたい旨を懇切丁寧に投夷書(とういしょ)にしたため、ペリーの艦隊にお願いしていることからも分かります。

能力はあまり高くないが、「僕これをすこぶる愛す」と愛情を持って伊藤に接した松陰の系譜は途絶え、思想と呼べるもののない伊藤のような単なる周旋家が、上手く戦争屋(ディープステート)に利用されていったのが維新後に起きた日本の実情でしょう。



19 ロスチャイルドと繋がるマシュー・ペリー




そして、恫喝によって開国を強要したマシュー・ペリーもまたフリーメイソンとされ、ペリーの娘婿であるオーガスト・ベルモントから、こちらもロスチャイルドに繋がります。

ペリーの日本遠征日記を読むと、この開国要求が、決して貿易のためではなく、後の侵略のためであったことは、以下の文から分かります。


日本国内の法律や規則について、信頼できる十分な資料を集めるには長い時間がかかるだろうし、領事代理、商人、あるいは宣教師という形で、この国に諜報員を常駐させなければならないことは確かである。


引用 ペリー提督日本遠征日記 (地球人ライブラリー)  P187 
マシュー・C. ペリー (著), Matthew C. Perry (原著), 木原 悦子 (翻訳) 小学館


このように、直接的間接的に、龍馬がイギリスを中心とする外国勢と接触していたことは明らかです。



20 日本の植民地化をあわよくば目論む諸外国



では、当時龍馬らと接触していた外国勢の意図はどこにあったのかを考えてみます。

幕末の日本にやってきた外国商人たちは、ほとんどが冒険心を持った山師であったでしょうが、その背後には日本でビジネスを目論むカンパニーが存在し、外交官や軍人は、それぞれが所属する国家の意思のもとに動いていました。

薩長に与(くみ)したイギリス、幕府に与したフランスは、極東の島国でビジネスを展開しようとする会社や自国民の保護はもちろんのこと、他のアジアの国々同様あわよくば植民地支配を狙っていました。

それら外国勢力と接するなかで、龍馬の真の意図や本心は、以上の検証から可能性は低いように思えますが、もしかして、何かを手に入れるために日本を売り渡し、イギリスや国際金融資本のエージェント(スパイ)として働いていたのかもしれませんし、普通に導き出されるように、外国勢を上手に利用し、新生日本を創り上げようとしていたのかもしれません。



21 日本が一つに結束してしまう新政府綱領八策



龍馬の真実の姿は、手紙だけでは確実に分かりませんが、最後の最後で内戦を否定する大政奉還の実現に動いていることや、その後の慶応3年(1867年)11月には、新しいこの国のかたちを示した新政府綱領八策を自筆で書き上げており、その原稿は今に遺されています。




新政府綱領八策
国立国会図書館


新政府綱領八策には、盟主となる人物が〇の伏字になっており、ここに入るのは何人かの大名が挙げられますが、薩摩の殿様でも長州の殿様でも土佐の殿様でもバランスは取れず、やはり徳川慶喜の可能性が一番高いと考えられます。

そもそも幕府にとって大政奉還とは、政権を放棄するのが目的ではなく、倒幕勢力の気勢をそぐためであり、新政体として想定された諸藩合議による公議政体で、徳川勢力が主導権を握るためでした。

ただし、徳川を含めた形で日本が一つにまとまることは、国際金融資本が一番望んでいない体制だったでしょう。

内戦が勃発し、武器を売りつけてお金を儲けつつ、戦争を長引かせて日本を消耗させ、植民地化することを、欧米各国や武器商人と背後の国際金融資本が企図していたならば、大政奉還の影の立役者である龍馬は、一番の功労者である慶喜と共に邪魔者であったでしょう。

慶喜は、孝明天皇の下手人を、大坂城定番の渡辺平左衛門章綱に探させ、その実行犯を伊藤博文と岩倉具視だと突き止めたとされ、官軍が天皇の名の下に掲げた錦の御旗など一蹴することができたはずなのです。

また、徳川家は朝廷への抑えとして、日光の輪王寺と上野の寛永寺に出家した皇族・法親王を頂いてきたように、官軍への対抗として、皇族関係者を擁立することも可能だったでしょう。

小御所会議で劣勢に立たされましたが、その後に巻き返し、公議政体派が優勢になったため、薩摩藩が江戸で挑発行為を始めていることから、大義は慶喜側にあり、しかも、旧幕府軍はフランスから導入した洋式軍隊であり、かつ官軍よりも兵力が多かったのであり、徹底抗戦することもできたはずですが、慶喜はそれをしませんでした。

勝海舟が語ったように、「政権を奉還して江戸城を引き払うように主張したのは、国家主義から割り出したもの」、といった内容なども考慮すると、坂本龍馬と徳川慶喜は、大政奉還とその後に至る内戦の回避行動を鑑みるに、もしかしたら、外国勢の意図に気が付いた数少ない本物の侍だったのかもしれません。

だからこそ龍馬は暗殺され、慶喜は今まで不当に貶められてきたのかもしれません。



22 龍馬の新国家に対する想い




そして、2017年1月に発見された、龍馬暗殺の5日前に書かれたとみられる手紙には、


「新国家」


の文字が記されています。

ここからは、新しい国に賭ける龍馬の想いを汲み取れはしないでしょうか。

仮にこの生き様が、後世の日本人から批判されたとしても、湧き立つ時代に生きた坂本龍馬という男の軌跡は、


世の人は われをなにともゆはゞいへ わがなすことは われのみぞしる


なのかもしれません。


幕末は、本気で国の行く末を考えていた志士、周りに同調していただけの志士、権勢欲のためだけに動いていた志士、時勢に踊らされていただけの志士、闘争の渦中に身を晒していたかっただけの志士と、様々な思惑が絡み合い、それぞれが行動をしていたと思いますが、ほんの150年前に、日本という国の未来を賭けて、龍馬を含め、おびただしい血が流れたことは紛れもない事実です。

このことを、単なる過去の歴史として終わらせるのではなく、日本人ひとりひとりが
我々のいまに反映させ、自らの生き方を振り返ると共に、国家のあり方についても考え、議論を闘わせ、政治に参加し、より良い国を創っていくきっかけにしなくてはならないでしょう。

ということで、坂本龍馬はスパイなのか英雄なのか? についての私の結論は、「憂国の士であった」になります。

本記事は、微に入り細を穿ちながらも、大局を捉え、龍馬の真の姿を描き出せたのではないかと自負しております。

皆さんも是非一度、世に流布する偉人に対する情報を疑い、再構築してみてはいかがでしょうか。



引用参考文献


0 件のコメント:

コメントを投稿