2018/09/22

芥川賞を獲得した小説「火花」は、どこまで又吉直樹氏本人が書いているのか?




PublicDomainPicturesによるPixabayからの画像 



出版不況は止まるところを知らない。

そんな声が聞こえてくる昨今ですが、ネットの普及によって活字を読む人口は明らかに増えています。

ただ、それが書籍の購入に結びついていないことは確かなようです。

スマホを取り出せば、TwitterやFacebookなどのSNS、ブログやニュースなどの情報、多種多様の小説など、ネットには無料の活字が大量に溢れており、お金を出して書籍を購入する機会が減っているのも理解はできます。

そのような状況で本を売ろうとするならば、話題性と固定ファンの付く著名人に白羽の矢が立つのは当然の流れであり、近頃は芸人、アイドル、女優、起業家、モデル、ミュージシャンなど、本職である作家以外の人間に執筆を依頼するケースが増えています。

その代表と言えるのが、芥川賞を受賞した又吉直樹氏の「火花」です。

吉本興業の芸人である彼の作品は大きな話題となり、ベストセラーとなりました。

しかしここで疑問が沸き起こります。

一体どこまで本人が書いているのかという疑問です。

以前、ある小説賞を獲得した短編集を読んでみたら、表題作と他の作品の文体が違っていました。

このことに気付いた人がどれ程いたか分かりませんが、本業の作家ですら、少なからず文に精通したライターや編集者の手が入っているのですから、普段文章を書いていない著名人などは推して知るべしです。

又吉氏は、二作目の「劇場」を発表した時、ビートたけし氏と小説についての対談をしていますが、この時たけし氏が、「自分の小説は全部ゴーストライターであり、喋っただけで書いたことはない」と語っているときに、彼は苦笑いをしているだけでした。

この最大のタブーについて、大御所芸人が勢いよく斬り込んでいるそのときに、何ら切り返しを放てない芸人に面白い作品が書けるとは思えません。

打てば響く芸人ならば、実際はどうあれ、「私が書いてないのバレちゃうじゃないですか!」とか、「いや私は自分で書いてますよ、十分の一ぐらい」のようなセリフを吐けるのではないかと思います。

たけし氏に急所を突かれ、困ってしまったようにも見えましたが、いっそのこと「本人が書いていなくても芥川賞ぐらい獲れるんですよ」ぐらい毒づいてほしかったような気もしますが、どうなのでしょうか。

また又吉直樹氏は、小説「火花」を編集者に何度も説得されてようやく書き始めたそうですが、仮にすべてを本人が書いていたとしても、芸術作品の創造とは自分のうちに沸き起こる何かがなければ、人に訴えかける何かは生み出せないのではないでしょうか。

他の著名人に関しても、初めて小説を書く場合、読むに耐えうる形にまでするには文章力の鍛練やストーリーの組み立てなど超えるべき関門が幾つもあり、それらを独力で行うのは多大な時間と情熱を必要とします。

それらの関門を、ライターの手直しという形でオブラートに包んでいますが、たけし氏のようにそのまんま誰かが書いている場合がほとんどかもしれません。

もっとも本業で忙しい著名人が、本気で小説の構想を練り、推敲を重ねて文章を紡いでいく時間を作るのは簡単ではないと思われます。

タレントの松本伊代さんが、自分の著書にも関わらず、そのエッセイ本をまだ読んでいないと発言したのは有名ですが、堀江貴文氏の小説「拝金 青春経済小説」や「成金 青春経済小説」が覆面作家によって書かれたことなども、十分過ぎるぐらい世間に知れ渡っています。

企業は利潤を追求する組織ですから、覆面作家が書こうがライターが書こうが、それは世間的にどうあれ文句を言われる筋合いはなく、手に取る読者はまんまと話題に乗せられただけにすぎず、固定ファンからすれば、本人のエッセンスや想いの断片を体感できれば誰が書いていようと構わないことなのかもしれません。

また、もしその本で読者が満足し、著者にも印税が入り、出版社も潤えば、それこそWIN、WIN、WINであり、雇用といった経済効果や国家への税金も含めれば、むしろ喜ばしいことと言えるでしょう。

仮に本人があまり書いていないとしても、それらを含めて娯楽として楽しめばいいじゃないかとか、一人で出来ることには限界があるのだから、他人の手が多く入っていたとしても本の作成はそれが普通じゃないか、などと言う方がいるかもしれません。

しかしそんな中で、小説の内容を世間から相当叩かれた著名人がいます。

それは、俳優の水嶋ヒロ氏です。

2010年にポプラ社小説大賞を受賞した「KAGEROU」は、素性を隠して本名の齋藤智裕の名で応募していたことや、副賞の賞金2000万円の受け取りを辞退したことなどで、当時何かと話題になりました。

この本は、てにおはの訂正はあったと思いますが、おそらく編集の手が入っていないのでしょう。

だからこそ、一般的な著名人の小説とは違い、内容や文体が標準に達していなかったと思われます。

水嶋ヒロ氏は、芸能界を引退と報じられるほど仕事をセーブして作品に打ち込んだことから分かるように、情熱といった創作の源泉となる何かだけはあったはずであり、またそうでなければ独力で小説など書けないと思うのです。

大賞の受賞が出来レースだったのは間違いないでしょう。

しかしそれは、26歳だった年若い水嶋ヒロ氏が、大人たちの皮算用に乗せられてしまったというか、資本主義の論理に巻き込まれただけの話でしょう。

彼の作品は、ライターや編集の手を借りずに作り上げたと思われ、であるならば、決して稚拙だと馬鹿にされても、堂々としていればいいと思います。

むしろ若い彼が、この騒動で得たことは二つあるのではないかと思います。

一つ目は、小説を独力で作り上げる過程で、苦しみの先にある創造の喜びを味わったことです。

二つ目は、数多くの批判に晒されたことです。

水嶋氏の経歴を見ると、有名私立高校の桐蔭学園に在籍し、サッカー部では好成績を残し、英語も話せ、進学した大学は私学の名門・慶應義塾大学で、身長は180cmもあり、容姿も整っており、仕事として選んだ役者でも主役を張りと、誰もが羨む申し分のない人生を送っています。

そこへきてKAGEROUの騒動で、作品と共に批判の的に晒されました。

まさに人生の転落です。

彼のことを詳しく知らないので確かなことは言えませんが、初めての大きな挫折だったのではないかと思います。

余計なお世話かもしれませんが、この挫折を乗り越えたとき、人間として強く、優しくなれるのではないかと思います。

そして、挫折は小説を書く上で大きな武器になります。

小説家は、人間に残された最後の職業と言われることがあります。

その意味するところは、誰にでもなれるということです。

しかし私はこう思います。

作家稼業が最後の職業だという意味は、酸いも甘いも噛み分けた晩年にこそ、読者の魂を打つ作品が書けるということです。

過去地球上で最も読まれた小説は、滑稽な騎士道物語として描かれた「ドン・キホーテ」であり、この作品は、著者のセルバンテスが58歳のときに出版されたものです。

当然ですが、「売れた=芸術的に優れている」や「売れた=内容的に優れている」とならないことは、出版に携わっている人なら理解していると思いますが、この「ドン・キホーテ」が広く読まれた理由を探ってみると、セルバンテスは、これでもかというぐらいの逆境を経験しています。

例えば、戦争で左手を失ったり、海賊に捕らわれて五年も奴隷として過ごしたり、無実の罪で三度も牢獄に繋がれたりと、このような悲惨な実生活を生き抜き、それでもなお創作に意欲を燃やし、牢獄の中で着想を得て、産み出されたのが「ドン・キホーテ」なのです。

時代背景を抜きにしても、このような逆境を乗り越えてきた著者の感情が行間に漂い、それが当時の読者の心に響いたのではないでしょうか?

いま世間で話題を集めている、「響 〜小説家になる方法〜」という漫画があります。

15歳の女子高生である響(ひびき)が、芥川賞と直木賞の両方を受賞する物語です。

これはあくまでも漫画や映画の世界と割り切って楽しめばいいのですが、人間を描く小説について、様々な人間関係、人情の機微、感情の振り幅、といったものを経験していない少女が、リアリティの伴ったとんでもない作品を書くことは難しいでしょう。

もちろん、若さゆえの不器用な情熱が奔放する作品や、みずみずしい感性が溢れた作品や、若者ならではの時代を切り取った作品もあるでしょう。

また、それらが芥川賞と直木賞に繋がったということで、エンターテイメントとして楽しめばいいのかもしれません。

ただリアルに大きな挫折を経験した水嶋氏には、余計なお世話かもしれませんが、その挫折から得た何かを創作に転換し、是非とも2作目を書いて欲しいと思います。

今度はライターや編集者の手を借りて、奈落の底に落とされた主人公を描いたとしたら、より説得力と話題性のある作品ができるのではないでしょうか。

ということで、著名人の小説はどこまで本人が書いているかは当人たちにしか分からないものの、あれだけのバッシングを浴びた水嶋ヒロ氏には、是非とも2作目の発表を同じ創作者として期待したいです。



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