2020/05/03

私と昭和の怪人と呼ばれた今東光和尚との巡り合い




人は人生を歩んでいくなかで、様々な人に出会います。

またその中には、自分の生き方や言動に影響を与えてくれる人物が、必ずどこかにいます。


尊敬する人・憧れの人・師匠・ロールモデル・メンター


このように様々な言い方があり、自分の人生を根底から変えてしまう人も中にはいるかもしれません。

またそれは、実在しない本の中で接する人物のケースもあるでしょう。

私にとって師匠と呼べる存在は、天台宗の僧侶で、直木賞を受賞した作家の肩書を持ち、参議院議員としても活動した今東光氏と言えるかもしれません。

今和尚は私が産まれた歳に亡くなっているので、もちろん面識はなく、名前を知ったのも30歳を超えてからでした。

私と今和尚との出会いは、思いがけないところから始まりました。

あるとき、スポーツ新聞を読んでいると、面白いコラムを見つけました。

その書き手は、伝説の編集者と呼ばれた元集英社の島地勝彦さんでした。

この面白いコラムを書く人は一体どんなバックボーンを持っているのだろうと調べてみると、島地さんは編集長時代、雑誌「週刊プレイボーイ」を100万部に育て上げ、また当時受け持っていた「人生相談」が、大御所作家らの絶妙な回答から若者に絶大な人気を誇っていたことを知りました。

そしてまた島地さん自身も、作家から受けた影響を交えながら人生相談の回答をしていました。

その「乗り移り人生相談」も面白かったのですが、中でも今東光氏のエピソードや人柄に興味を持ったため、当時の相談内容に関する書籍を購入して読んでみることにしました。

読んでみて、その毒舌の裏にある著者の豊かな人間性と深い人間愛を感じました。

その後、和尚について色々調べてみると、和尚の教養と知性、そして大きな愛を備えたアウトサイダーという人格が浮かび上がってきました。

アウトサイダーとは、社会一般の枠に収まらないような、独創的なはみ出し者といった意味であり、実際に和尚は中学校を二度も退学となり、その後は、正規の教育を受けずに学を身に付け、また至るところで喧嘩をしているように、波瀾に富んだ人生を送っています。


そして、その人生を反映するかのように、質問者へのドギツイ回答も多いのですが、回答の裏に隠れたロジックや別のところにある真意、相手を想うがゆえの毒舌や修辞、相談者に応じて回答の内容を変える対機説法などと共に、滲み出る若者への深い愛情や、弱きを助け強きを挫く想いに、私は惹かれました。

当時私は、長年にわたる深い悩みを抱えていました。

そして島地さんも和尚も、お墓の面前で故人と語ることについて勧めておられ、そのような経緯から、人柄に惹かれた和尚の墓前に何度か訪れ、会話をしました。

「大僧正、これどう思う?」

そのような感じで、色々と語りかけました。

もちろん何も返事はなく、叱咤の声も聞こえてきませんでしたが、不思議と気持ちは落ち着きました。

その後私は、長年自分を縛り付けていた過去から抜け出すことができましたが、そこには、和尚の深い愛が関係していたと思います。

そのため、和尚を私に引き合わせてくれた島地さんに一言お礼を言おうと、当時、新宿の伊勢丹メンズ館8階で、バー「サロン ド シマジ」を開いていた島地さんの所に挨拶に行きました。

そこで感謝の気持ちを述べ、書いてきた手紙も渡し、これだけは聞きたいと思っていた質問を一つしました。

それは、大の自信家で、本物を自認していた今和尚が、同時代に生きていた、同じくアウトサイダーの岡本太郎さんをどう感じていたかということです。

太郎さんは、中学を退学という今和尚とは違い、何度かの転校や退学はあるものの、慶応普通部、東京美術学校(現・東京芸術大学)という、言ってみれば正規の門を潜ってきた経歴でありながら、言動や作品が物議を醸すアウトサイダーとも言える存在でした。

私は芸術家としての太郎さんに大きな影響を受けていますが、昭和の怪人・今東光が、エネルギーの塊で、同じく教養も知性もあった岡本太郎をどう感じていたか非常に興味がありました。

今大僧正は、したたかさを含めて様々な顔を持つ人物だと思いますが、基本的に二人とも本気でぶつかってくる人間だと思われ、この二人がお互いをどう思っていたのかを、当時の時代の雰囲気と共に興味がありました。

この両者は、共に作家の川端康成さんと繋がりがありました。

東京の多磨霊園には、岡本太郎さんと両親の一平、かの子さんのお墓があり、その脇には川端康成さんの碑文が添えられているように、岡本太郎さんと川端康成さんの間には深い交流がありました。

そして川端康成さんは、もぐりの東大生だった今大僧正と文芸雑誌・新思潮に参加しているように、親から勘当され上京していた和尚とは旧制一高時代からの友人であり、また川端康成さんの葬儀を取り仕切ったのも、天台宗の僧侶であった今大僧正です。

つまりこの両者は、川端康成さんを介して容易に繋がれる関係にあり、型破りな芸術家同士、お互いがどのような会話を交わしたのか非常に興味がありました。

そしてまた、別の意味でも二人は共通点を持っていました。それは、若くして強い父性を獲得せざるを得ない状況に追い込まれた点です。

父性や母性という言葉を出すと、昨今では議論を呼ぶものの、ここでは厳しさと一応定義しておきますが、岡本太郎さんの父は、自分の妻に恋人を作ることを許し、そして同居まで許してしまうような人であり、太郎さん自身が語っているように父性の欠片もない人でした。

母親に恋人がいたら、当然息子は父親が否定されていると考えます。息子にとって父親とは、将来の大人像や父親像であり、その父親が強烈に母親から否定されることは、それはそのまま、血の繋がった同性の己に対する自己否定に繋がったと思われ、また自身の出自さえ疑ったはずです。

恐らく太郎さんご本人は相当悩み、またそれが古い時代のことだから尚更であり、そんな父親の姿を自己に投影し、人格を形成していくのではなく、自分が強い父になり、父性のない父に成り代わる必要が若いときからあったのだと推察されます。

だからこそ太郎さんは、自他ともに厳しい自己を確立していったのだと私は考えていますが、一方の今東光和尚は、父が外国航路の船長をしており、家にはほとんど居らず、また昔の航海は危険で、暴風雨や戦争などで絶えず死ぬ危険があり、そのような非常時が常に家にある中で、男三人兄弟の長男として家長の役目をこなしてきた人です。また、当時はまだ少なかった日本人船長の息子としての自分も意識したと思われ、共に対極的ではあるものの、若くして強い父性を獲得する必要に迫られた点で似通っています。

この芸術家二人がお互いをどのように認識し、どのような会話を交わしたのか、今大僧正と深い交流があった島地さんからお伺いしたかったのですが、結局、島地さんから具体的な回答は得られず、当時の二人の接点も知らないのですが、和尚と巡り合わせてくれた島地さんに感謝するとともに、豊かな人間性と深い愛を備えた今東光という一人の人間は、私の中に息づいています。


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