畳の上の水練という言葉があるように、いくら畳の上で泳ぎの練習をしても、実際に水中で試してみなければ、泳ぎを体得することはできません。
世の中の多くの事は、実際に経験してみなければ分からず、理屈は時として何の役にも立ちません。
これは身体的なことに限らず、精神的なことも同じです。
喜びや悲しみなどの感情も、頭で理解するものではありません。
我々が望外の喜びを経験したとき、身体が躍り上がります。
桁外れの怒りを抱いたとき、血管が浮き出て身体が震えます。
このように、感情は身体と通じており、喜怒哀楽も皮膚感覚で理解するものです。
そういう意味において、読書は読むという経験ではあるものの、直接身体を動かしているわけではなく、頭だけを働かせている間接的な状態です。
しかし、良質な児童文学は、読み手がいつの間にか物語へ没入し、登場人物へ感情移入しています。
自分が本の中のキャラクターとなり、本の仮想世界を実際に生きているように感じられます。
多感な時期に読書体験がない人には、この高揚感や夢中度を分かってもらえないかもしれませんが、これは本当に経験に近いと言えるものです。
優れた冒険小説は、他のどんな冒険漫画よりも、他のどんな冒険映画よりも、他のどんな冒険ゲームよりも、人物が躍動します。
その理由は、文字から成る小説は、与えられた画像を追うのではなく、イメージを自分の中で作り出すものだからでしょう。
視覚から受け取る情報は非常に大きな割合を占めます。
それらを受動的に追うことと、自らが想像し、能動的に動かしていくことには大きな隔たりがあります。
文字を追う小説は、こうして物語に没入することで、他人の人生を追体験し、その感情すらも擬似的に経験できるのです。
そこにこそ文学の存在意義があります。
人の一生で経験できることは限られています。
人生は有限であり、幾つもの人生を生きることはできません。
だからこそ、実際に経験できない、経験したくない出来事を小説で追体験することが必要なのです。
そこで得られるのは単なる知識ではなく、実感を伴った他人の悲しみや苦しみの追体験であり、そのことで、社会に生きる様々な人々の気持ちを理解できるようになると思います。
このように、優れた児童小説を読むことは、子どもたちの想像力と共感力を育むことになるはずです。
そしてまた、文字から映像を生み出す想像とは、創造に他なりません。
その意味は、例えば、
「霧深い山道を、帽子をかぶった一人の老婆が歩いている」
という場面があるとします。
そしてこの場面をイメージするには、自分の中にある、
「深い霧・山道・帽子・老婆」
という映像を瞬時に組み合わせる必要があります。
つまり自分の持つ材料から、最適な組み合わせを即座に創り出すことが求められるのです。
優れた文学を読むということは、想像力だけでなく、共感力や創造力すらも巧みに喚起されるのです。
人が想像できることは、必ず人が実現できる。
これはテクノロジーに限ったことではなく、各個人が生き生きと暮らせる理想的な社会も、本によって育まれた子どもたちの想像力と、共感力と、創造力によって築かれていくはずです。
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