そして、そのストーリーがどんなに冴えなくとも、どんなにダサくとも、ラストシーンまで演じきらなければなりません。
この世に生を享(う)けたときから幕は上がり、主演以外の共演者、音響さん、衣装さん、照明さんなど様々な人の手を借りながら、人生という名の、自分だけの映画を作っていかなくてはなりません。
限られた時間の中で、どのように演じるかは自分次第です。
そして、ラストシーンは決まっていません。
エンドロールが流れたとき、満場の観客からスタンディングオベーションを貰える人がいる一方で、その場に数人の観客しか居ない人もいるでしょう。
また、その僅かな観客から大きな拍手を貰える人がいる一方で、その僅かな観客からも、傍観者のごとき視線を送られる人もいるでしょう。
もしかしたら、緞帳(どんちょう)が降り、映画の公開終了から時を経て、脚光を浴びる人がいるかもしれません。
人の評価とは、棺桶が閉じてからも分からないとしても、皆それぞれが、限りある与えられた生を最後まで生き抜かなければなりません。
天上天下唯我独尊
てんじょうてんげゆいがどくそん
という言葉があります。
その意味するところは、
この広大な宇宙に、我よりも尊い存在はない
この世に生を享(う)けたときから幕は上がり、主演以外の共演者、音響さん、衣装さん、照明さんなど様々な人の手を借りながら、人生という名の、自分だけの映画を作っていかなくてはなりません。
限られた時間の中で、どのように演じるかは自分次第です。
そして、ラストシーンは決まっていません。
エンドロールが流れたとき、満場の観客からスタンディングオベーションを貰える人がいる一方で、その場に数人の観客しか居ない人もいるでしょう。
また、その僅かな観客から大きな拍手を貰える人がいる一方で、その僅かな観客からも、傍観者のごとき視線を送られる人もいるでしょう。
もしかしたら、緞帳(どんちょう)が降り、映画の公開終了から時を経て、脚光を浴びる人がいるかもしれません。
人の評価とは、棺桶が閉じてからも分からないとしても、皆それぞれが、限りある与えられた生を最後まで生き抜かなければなりません。
天上天下唯我独尊
てんじょうてんげゆいがどくそん
という言葉があります。
その意味するところは、
この広大な宇宙に、我よりも尊い存在はない
というものであり、仏教の開祖であるお釈迦様が、生後直ちに七歩進み、天と地を指差して口にしたと伝わるもので、また、自分が一番偉いのだという誤った解釈を与える言葉でもありますが、もし自分が誰かを助けたいと思った場合、それが直接的にしろ間接的にしろ、自分という存在がなければ何も始まりません。
そういう意味において、自分という存在は、この地球上や宇宙空間の中で最も尊いのであり、それはすなわち、
この大宇宙には、自分の代わりとなるものはどこにもない
という意味でもあります。
繰り返しますが、人生の主役は、自分以外に務める者はいません。
そして、それぞれが演じる人生もまた、唯一無二のものです。
全編が魅力に富んだ映画もあれば、最後の最後でコケてしまう映画もあれば、つまらないストーリーの最後にドンデン返しが起きる映画もあれば、何の見せ場もないまま終わってしまう映画もあるでしょう。
しかし、それは他人から見た物差しに過ぎません。
エンドロールが流れるその時まで、誰しもが代役の効かない主役として、自分自身を演じ切らなければならないでしょう。
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