2019/03/11

織田信長の性格を意外なエピソードから検証する





HiCさんによる写真ACからの写真 




目次 読了10分


  1. 概ね好意的に解釈されてきた過去の信長
  2. どこからか始まった現代版・信長包囲網
  3. 人間味のある温かいエピソードを無視する批判者
  4. 当時の寺社は信者を駆り出す武装集団
  5. サイコパスは創価学会の会長・池田大作ではないのか?
  6. 今も昔も変わらず悪用される宗教の善の側面
  7. 信長がいたからこそ乱世が早く平定されたという事実
  8. 主君・信長の恩義を無視した羽柴秀吉
  9. 酒宴で披露したドクロは残虐性どころか正反対の逸話
  10. 豊臣秀吉の残虐性を示す聚楽第落首事件
  11. 柴田勝家ら武辺者を恐怖で従わせることなど不可能
  12. 厳格な正義と名誉心、そして人情味と慈愛を備えた武将・信長
  13. 非道な戦国武将・蝮(まむし)の道三を心酔させた若武者・信長
  14. 情報操作に騙されず人物の実像に迫ることの大切さ



1 概ね好意的に解釈されてきた過去の信長




織田信長を題材にして本を書けば、一年は飯が食えると言われてきた出版界において、過去、様々な作家によって信長は料理されてきました。

その人物像は、それこそ作家の独自な視点によって描かれてきたわけですが、その中で信長が起こしてきた敵の殲滅については、血で血を洗う戦国の世において、天下を平定するためだったという概ね好意的な解釈が取られてきました。



2 どこからか始まった現代版・信長包囲網



しかし、ここにきて状況が変わってきたようです。

美人脳科学者と呼ばれている中野信子氏が、根拠もなく著書で信長をサイコパスと断定したり、安倍応援団の筆頭・百田尚樹氏が、歴史本「日本国紀」で虐殺者と断罪したり、作家の垣根涼介氏が、小説「信長の原理」で人を人とも思わぬ信長像を描くなど、なぜだか現代版・信長包囲網が敷かれているようです。

確かに信長の逸話として、延暦寺の焼き討ち事件が有名であり、他にも、街中で柿を食べ歩くといった行儀の悪さや、服装のだらしなさや、父信秀の葬儀で位牌に抹香を投げつけるといった無作法や、そんな信長のうつけぶりに悩んだ傅役の平手政秀が諌死したなどがあります。



3 人間味のある温かいエピソードを無視する批判者 



しかしその一方で、家臣の討死に接して涙したり、天女に変装して民衆と一緒に踊ったり、雨露に打たれる街道の乞食を助けたり、死が目前に迫る本能寺の変で女性たちを逃がしたりと、このような人間味のある温かいエピソードが、資料として信頼のおける信長公記に残されています。

そのような逸話を無視し、百田尚樹氏は著書で、


元亀二年(1571)の延暦寺との戦いでは、寺を焼き尽くし、僧だけでなく女性や子供まで数千人を皆殺しにした。天正二年(1574)の伊勢長島の一向一揆鎮圧の際も、女性や子供を含む二万人を皆殺しにしている。


引用 日本国紀 P141 百田尚樹 幻冬舎 


と記したことについてツイッターで、


141pで書いた信長の所業は、極めて例外的殺戮であり、言うなれば彼の個人的犯罪に近い。


引用 百田尚樹Twitter


とあたかも信長を殺人鬼のごとく断罪しています。








4 当時の寺社は信者を駆り出す武装集団



このように、信長の虐殺事例として「延暦寺の焼き討ち」や「一向一揆」がよく語られますが、当時の寺社は、広大な土地や多くの金といった権力基盤を持ち、それらを守るために武装し、それだけならまだしも、信者を駆り出して敵対宗派に襲撃をかけるような組織でした。

天文5年(1536)7月に起きた天文法華の乱(てんもんほっけのらん)から分かるように、この事件は、比叡山延暦寺の衆徒が京都の日蓮宗徒を襲撃したというもので、このとき多くの犠牲者が発生し、京都の大半が火事で焼失しました。

一向一揆にしても、石山合戦という名称が付いているように、これらの寺社は他の戦国大名と同盟して戦っているのであり、また信長の中立勧告に背いたり和睦を破棄して蜂起したために攻撃を受けたのであり、当時の原理からいけば、そんな組織を殲滅したことは虐殺には値しません。

虐殺とは、無抵抗で弱い市民を一方的に殺害することであり、むしろ善良な信者を騙して洗脳し、女性や子供たちまで戦いに駆り出す宗教集団に問題があるのであり、それは現代でも変わりません。



5 サイコパスは創価学会の会長・池田大作ではないのか?



中野信子氏が褒め称える創価学会がいい例です。

会長の池田大作氏は、ヤクザの後藤組に汚れ仕事を押し付けておきながら、表では善人ズラする悪だと元組長の後藤忠政氏に言われており、またレイプの加害者として訴えられながらも、裁判所に出廷せず逃げ回るような姑息な人間でもあり、パナマのノリエガ将軍が暴露したように、CIAの手下となってコカインで得た資金をマネーロンダリングし、また、平和を謳いながらもイラク戦争に賛成し、大量虐殺に加担しているのであり、こんな人間を崇め奉るよう、善良な信者を騙しているのです。

公明党は、戦争を止めるどころか賛成している事実から分かるように、支持母体の創価学会会長とはとんだペテン師であり、結局イラクが所持していたという大量破壊兵器の情報も虚偽であり、それによって約50万人もの無辜の民が殺されていますが、池田教祖様は責任を取った様子もなく、まさに中野信子氏の言うように、平気で嘘を吐き、罪悪感ゼロのサイコパスです。



6 今も昔も変わらず悪用される宗教の善の側面



このような扇動者に、宗教の救済という善の側面が悪用され、真面目な人や悩みを抱えた人が取り込まれ、都合よく利用されてしまうのは今も昔も変わりませんが、信長は乱世の掟の中で、慈悲の眼差しを向けながらも、殲滅しなければ再び歯向かってくるという合理的な判断を持って、天下泰平のために戦闘をしていたと思われます。



7 信長がいたからこそ乱世が早く平定されたという事実 



それは、宣教師ルイス・フロイスが書き残した、信長は人情味と慈愛を備えていたとの記述からも裏付けられます。

書籍「日本国紀」では、フロイスが記した信長の人情味と慈愛の項目が省かれていますが、なぜ百田尚樹氏が時代背景や歴史的事実を考慮せず、信長を個人的に貶めようとしているのか知りませんが、信長がいなければ乱世がもっと長く続き、パックス・トクガワーナと呼ばれる徳川の平和な治世が遅れてやってきたことを理解しているのであれば、当時の寺院が、戦国大名と同等かそれ以上の兵力と武器を持っていたとの認識があるのであれば、個人の資質による虐殺などという言葉は出てこないはずです。




8 主君・信長の恩義を無視した羽柴秀吉



垣根涼介氏の小説「信長の原理」にしても、信長が多くの家臣に裏切られた理由を、人を人とも思わぬ苛烈な人間だったからとしていますが、戦国時代は裏切りなど日常的に起きており、江戸期や明治期における儒教的な武士道とは違い、利害や己の主義といったそれぞれの理由で動いていました。

それは、信長の忠臣であった羽柴秀吉の行動からも分かります。

秀吉は光秀を倒した後、織田家の権力簒奪に一点の曇りもなく突き進みます。

自分を引き立ててくれた主君の恩義など無視し、「惟任退治記」で信長の最期を汚す場面を描かせ、織田家の庇護者・柴田勝家を追い落とし、信長の三男・織田信孝を自害させ、権力を手中に収めていきます。

信孝の辞世の句は、以下のように秀吉に向けた怨みに貫かれています。


昔より 主を討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前


これらを考慮すれば、信長の忠臣であった秀吉ですら、隙あらば下剋上を狙っていたことが分かります。

つまり戦国を貫く原理とは、力と力の戦いであり、必然的に裏切りを内包していたのです。




9 酒宴で披露したドクロは残虐性どころか正反対の逸話



明智光秀の裏切りにしても、信長の残虐性や冷酷さからくる怨恨説が唱えられていますが、その象徴的なエピソードであるドクロの盃で酒を強要した話は後世の創作です。

確かに、信長の家臣・太田牛一の記した信長公記には、浅井親子と朝倉義景の頭蓋骨を酒宴の席で披露したことが記されており、しかもそのドクロは、漆に塗られた上で金粉が施されていたようですが、この加工は司馬遷の「史記」にも見られ、古代中国で行われていたその意味とは、討ち取った敵に敬意を評し、その勇気を取り込むためであったようです。参考文献http://douzoukenkyu.blog101.fc2.com/blog-entry-87.html

つまり、このドクロを酒宴の席に持ち込んだことは、信長の残虐性や冷酷さを表すどころか、まったくの正反対であり、争った強敵と自軍の武勇を労う意味でした。

他にも、酒宴から中座しようとした光秀に対し、キンカ頭と信長が怒鳴って頭を打った逸話や、大きい盃に入った酒を強要し、拒否する光秀に脇差を突き付けて飲ませた逸話も後世の創作であり、光秀が家康への饗応で腐った魚を出したため、信長の怒りを買ったという話も秀吉に近い人間が後世に創作したものです。(川角太閤記)

もちろん信長に苛烈な一面があったのは確かです。

将軍・足利義昭の行状を咎める異見書や、次男・信雄の負け戦を叱責する折檻状や、古くからの重臣であった佐久間信盛に対し、長い間武功を立てていない事を長文で攻め立て、高野山へ追放したことなどが挙げられます。

ただこれも、自分の甥であり養子となった豊臣秀次を、一族郎党まとめて根絶やしにした秀吉と比較すれば穏やかなものです。



10 豊臣秀吉の残虐性を示す聚楽第落首事件



秀吉に関しては、聚楽第の白壁に記された自分への批判の落書きに対し、警備担当者17名の不備をとがめ、鼻と耳を削いで磔にし、さらに、犯人とされた尾藤道休は本願寺で自害したにも関わらず、尾藤の住んでいた町を焼き払い、しかもその町の住民を捕縛し、京都の六条河原で磔にして無惨に殺害した事実さえあるのです。

信長に関して、一部では家康への暗殺を光秀に指示し、光秀は断ったために足蹴にされ、それがの謀反の要因として語られることがありますが、これもあり得ないでしょう。

なぜなら、豊臣秀吉が、徳川家康を関東の地に転封させように、江戸幕府が、いくつもの大名を改易という形で統制していったように、長い目で見れば他にリスクのない方法がいくらでもあったからです。

当時信長は、平定した領地を親族に与え、織田政権を磐石のものにしようとしており、そのような時に、何ら咎める点のない同盟者を暗殺などすれば、身を粉にして働いてきた他の司令官が不信を抱き、同じ目に遭うと判断した者が反旗を翻し、それが政権の動揺に繋がることなど容易に理解できたはずです



11 柴田勝家ら武辺者を恐怖で従わせることなど不可能



また当時の武将たちは、信長に恐れおののき、ひれ伏していたとする証言もありますが、織田軍の猛将・柴田勝家の壮絶な最期を理解すれば、恐怖で従わせることなどできるはずもないのです。

勝家は賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れた後、居城であった越前北ノ庄城で自害します。

このとき妻であるお市の方も一緒に自刃しますが、息女三人はきっちり秀吉に託しており、その上で行った切腹は、秀吉本陣に向きつつ腹を十文字にかっさばく見事な死に様であり、また、最後まで付き従った家臣に対し、逃げるよう勧めるなど度量の広さも持ち合わせた人間なのです。

また勝家には以下のように、


先陣の大将たる者、威権なき時は下知行わざるものなり」


と、大将には威厳が必要だ、との言葉が残っているのです。

仮にこれらの話が創作だとしても、常に死と隣り合わせに生き、負ければ斬首や切腹といった最後が待ち受けている時代に生きていた戦国武将たちが、いくら信長が居丈高だったとしても恐れ戦く(おそれおののく)はずもなく、そのプライドからぞんざいに扱えるはずもないのです。

そもそも勝家は若い頃、信長の弟・信勝(信行)側に付いて実際に信長と戦っているのであり、これらを考慮すれば、いくら信長が主君だとはいえ、家臣に乱暴な振る舞いをできるはずがないのです。

信長とは、秀吉のように言い掛かりで家臣や住民を虐殺したことはなく、自分を裏切った、いやこの時代であれば殺そうとした弟の織田信勝(信行)、柴田勝家、松永久秀を許しており、再び裏切った信勝を止むを得ず殺害した後も、その子供である津田信澄を育てているのです。



12 厳格な正義と名誉心、そして人情味と慈愛を備えた武将・信長



つまり織田信長の実像とは、己の力以外頼れるもののない血みどろの乱世の中で、イエズス会の宣教師ルイス・フロイスが「日本史」で記したように、厳格な正義と名誉心に支えられながらも、人情味と慈愛を備えた武将だったと思われます。

もちろんフロイスの記述は、一次情報だとしても全面的に信じることはできません。

なぜなら、当時のローマ・カトリックの宣教師たちは、スペインやポルトガルの国家的な庇護を受け、侵略の足掛かりを得る尖兵としての諜報要員であり、また布教の目的は、後からやって来る軍隊のために、信者を内乱用に利用するためでもあった事実は、大航海時代のアジアやアメリカにおける侵略の歴史から確定しており、日本においては、現地で改宗させた大名や信者に神社仏閣を破壊させたり、日本人を奴隷として売り飛ばす商人とも協力関係にありました。

そのような敵情を探る役を与えられた人間は、本当に危険で重要な情報は残さないため、フロイスの記述は疑ってかかるべきですが、信長に関する残された事実や、客観的に記された一次資料の「信長公記」と照らし合わせれば、信長が単なる虐殺者であったという結論は導けません。



13 非道な戦国武将・蝮(まむし)の道三を心酔させた若武者・信長




信長とは、やらなければやられる殺伐とした時代の中で自ら軍を率いて先陣を切る男であり、勝てる見込みのない桶狭間の戦いでも家臣をまとめ上げることができ、人質でもその器量を見抜けば蒲生氏郷のように自分の娘を嫁がせたり、正徳寺(聖徳寺)の会見では、主筋の人間をことごとく非道な手段で始末してきた斎藤道三を唸らせ、最後はそのマムシの道三から所領を譲るとまで言わしめた戦国武将なのです。

今川義元を破った桶狭間の戦いでは、信長は前日に家臣と雑談しかせず、何も決めませんでしたが、圧倒的に不利な状況において、中途半端な軍議をしても意味がないことを理解しており、現代でも、どうにもならない状況のとき、無駄な会議をしても意見の集約を見ず、右往左往して事態が進展しないことと同じであり、合理的な精神が見られます。

このような窮地で求められるのは、取るべき手段を決めたあと、その一点の突破に賭けることであり、信長は、この日の明け方に一気に出陣命令を掛けたように、ここぞの決断力と実行力を兼ね備えていたことが分かります。

また、軍議を開かなかったことで、今回は流石に殿も怖じ気づいたかと家臣に疑心暗鬼を抱かせながら、電撃的に出陣命令を掛けたように、まさに静から動へ緩急をつけることで家臣を引き寄せる演出を行なっています。

そして軍団が集まった熱田神宮では、神をも信じない信長でしたが、結束力を高めるために願文を奉じたように、こちらでも演出できる柔軟性を備えており、しかも桶狭間で使用した奇襲攻撃はその後使用していないように、成功体験にも固執せず、また死に臨んでも周りの女性に配慮できる武将だったのです。

ということで、


織田信長はサイコパスや虐殺者とされるのは本当か? 


という冒頭の問いは、そうではないと結論付けます。

なぜ、安倍晋三の太鼓持ち・百田尚樹氏や、創価学会の信者と言われる中野信子氏や、作中にジョージ・ソロスの文を引用した垣根涼介氏らが、個人的な恨みがあるかのように信長を貶める記述をしたのか分かりませんが、もし織田信長に興味があれば、私の一番好きな小説である、辻邦生氏の「安土往還記」をお勧めします。



14 情報操作に騙されず人物の実像に迫ることの大切さ



しかしそれにしても、吉本興行の宮迫博之氏や田村亮氏らが、反社会的勢力と関係を持ったことが世間を賑わせ、大問題に発展しましたが、相手の素性を知ってか知らずかのグレーな芸人が徹底的に追い込まれる一方で、山口組系暴力団の後藤組に、それも武闘派と目される団体に汚れ仕事を押し付けた創価学会が何食わぬ顔で平和を騙り、その宗教団体を基盤に持つ公明党が与党の一角を占めている日本とは、一体どういう国なのでしょうか?

しかも、脱会者は自殺に追い込め、というのが池田会長の指令との通り、脱会者、批判者、勧誘を断った人間を仏敵と定め、集団で相手の頭がおかしくなるまで嫌がらせを行う団体でもあり、さらにはお布施等が非課税なのを隠れ蓑に、人間を破壊する薬物・コカインから得た金をマネーロンダリングする役割を戦争屋(ディープステート)から与えられており、住民の大量虐殺を行ったイラク戦争にも加担しているのですから、真面目な会員の方々は、是非ともこのインチキ宗教団体の正体から目を逸らさずに、きっぱり決別してほしいと思います。

また、創価学会に殺された可能性が高い、転落死した東村山市議の朝木明代さんは、創価高校で起きた脱会者への退学強要事件など、脱会者や被害者の救済に取り組んでいました。

創価の教えを否定する者に対し、それを批判するのは差別や偏見ではありませんが、信教の自由を無視し、しかも高校生に対して退学を強要する行為は、明らかな人権侵害でしょう。

もっとも、池田大作は会長就任挨拶で、「邪宗教は地獄に落ちる」と大勢の前で堂々と語るような人間ですから、このような実力行使の人権侵害も理解できますが、このカルト組織は、尾行などの嫌がらせや人権侵害に留まらず、朝木明代さんの娘さんである東村山市議の朝木直子さんが訴え続けているように、人殺しまで行う集団だと多くの日本人は認識しています。

織田信長に関しても、後世に生きる我々は、情報操作に騙されず真の実像に迫りたいものです。




参考文献



0 件のコメント:

コメントを投稿