2018/06/26

家康の顰像(しかみぞう)のように、自分の情けない姿を記録として残すべし!




徳川家康 三方ヶ原戦役画像 
パブリックドメイン 徳川美術館所蔵


戦国の覇者・徳川家康の自画像に、一風変わったやつれた表情の絵があります。

権力者らしからぬこの一枚は、通称・しかみ像(顰像)と呼ばれています。

作品の由来は、三方ヶ原の戦いで武田信玄に大敗した家康が、苦境や屈辱を忘れないために、敗戦直後に描かせたと伝わるものです。

この家康の器量を示す逸話は、創作の可能性も指摘されていますが、この戦で惨敗した家康は、浜松城へと逃げ帰ります。

その途上で、恐怖のあまり脱糞したという話は後世に付け加えられたもののようですが、生死を別けた退却であったことは間違いなく、家康はそんな最中にあっても、闇夜の遁走に付き添った忠臣を後に褒賞するため、その供回りの刀に痰唾を吐き続け、証拠を残していたというのです。

徳川家康とは、絶体絶命の危機に直面しても、自分自身を見失うことのない器の大きな武将でした。

だからこそ、自分の不甲斐ない姿を描かせた、しかみ像の逸話も、後世に伝えられてきたのでしょう。

そしてこの、追い詰められた自分を敢えて描かせたエピソードは、後に天下を獲った男のどん底時の出来事としてや、家康が戦国の覇者となり得た要因としてや、危機の捉え方を学ぶ題材として、広く国民に親しまれています。

では、この苦境や屈辱の記憶を留め置いたしかみ像の逸話を、我々自身に当てはめてみることはできないでしょうか?

例えば、危機に遭遇したときや大失態を犯したとき、自分の姿を写真に納め、そのときの記憶を焼き付け、捲土重来を期すための旗印として用いるようなことができるかもしれません。

しかし、本当の窮地やどん底に陥ったときは、ただただ現状から抜け出すことに必死で、写真を撮るような余力は残っておらず、底だと判断してもさらに落ちていくケースがあるでしょう。

また、波瀾に富んだそれだけの谷底を経験する人も、そう多くはないかもしれません。

そこで、しかみ像の逸話を別のシチュエーションで用いてみることにします。

私事になりますが、私が初めて書いた小説は、それはもう目も当てられない出来で、小学生が、夏休みの最終日に適当に書いた読書感想文よりも酷いものでした。

これは何も私だけでなく、すべての人に該当することであり、何かの目標に向かって踏み出す最初の行動は、間違いなく上手くいきません。

今をときめくYouTuberも、敏腕営業マンも、一流のプロ野球選手も、皆初めは失敗から始まったはずです。

そこで大事なことは、無残な失敗や惨めな敗北から眼を逸らさず、徹底的に原因を追究することです。

そして、判明した原因に則した対策を立て、再び実行に移すプロセスを軌道修正しながら繰り返していくことが、すべての道に通じる上達方法です。

歌手の矢沢永吉さんの言葉に、次のようなものがあります。


一回目、散々な目に遭う

二回目、落とし前をつける

三回目、余裕


このように一回目は醜態を晒しても、その後適正な手順を踏めば、回をこなすごとに習熟度が上がっていきます。

ただし、二回目三回目も返り討ちに遭うことがあるでしょう。

私のケースでは、


一回目、けちょんけちょんにヤられる

二回目、みそくそにヤられる

三回目、くそみそにヤられる


のような感じでした。

そこから這い上がり、今はどんな作家にも負けないと吠えられるまでになりましたが、時折初めて書いた作品のことを思い出し、自分を戒めます。

その作品を敢えて取り出し、過去を振り返るようなことはしませんが、家康のしかみ像のように引き出しの奥に仕舞ってあります。

そして何かの拍子にその作品に触れると、


お前こんな糞みたいな作品書いてたんだぞ

今も大したことない出来だぞ

思い上がるな

まだまだ上があるはずだ


と自分を懲らしめます。

人はともすると、未熟だった過去の自分を忘れてしまいます。

そんなとき、しかみ像のように記録した稚拙な自分を振り返り、今を否定する状況を作り出すのです。

人気YouTuberが初めて作成した動画も、敏腕営業マンが駆け出しの頃に作成した営業トークの音声も、プロ野球選手が新人のときに使用したグローブも、未熟だった過去の自分と向き合うのに最適です。

ここで、昔と比べて上達したと悦に浸るのではなく、更なる高みを目指すためのバネとして用いれば、いつの日か、まだ見たことのない自分にきっと出会えるはずです。



参考文献
2013年12月25日 読売新聞朝刊 「古今あちこち」 磯田道史



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