仙台・青葉城の伊達政宗騎馬像
canvaより
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目次 読了時間5分
1 絶体絶命の危機にどう対処するか
絶体絶命の危機にどう対処するかという問題は、個人や組織にとって重要なテーマです。
日常生活において、「もはやこれまで」という場面はそうそう訪れないとは思いますが、ピンチとは、時間と場所を選ばず思いもよらない角度から降ってきます。
そのときどう対応すべきかについて、セオリーはあれども明確な答えはありません。
ピンチの姿形は様々で、その対応の仕方もまた様々になりますが、状況に応じてその場を乗り切らなくてはなりません。
後から振り返ると笑い話になっていることも多いですが、事件発生時は脂汗をかいているはずです。
こういったピンチは、用意周到に準備をしていても訪れるものであり、また危機に遭遇したときの対応は、まさに人間性や人間力があらわになります。
もっとも、昨今ではネット上で謂れのない誹謗中傷を受けたり、勝手に名乗られる成り済ましにあったり、さらにそれらがあっという間に拡散して対処に苦慮するようなケースがあるものの、自分が引き起こした危機の対応に失敗したとしても、主に失うのは内外の信用だけです。
そして、もし上手く対応できれば、逆に信用を勝ち得ることさえあります。
一方で、本記事の事例として取り上げる戦国武将の危機は、対応に誤ればそれこそ命取りとなり、生命の危機に直結していました。
そんな命のやり取りをしていた戦国時代の話は、現代人にとって直ちには参考にはならないかもしれませんが、武将も我々と同じ人間であり、その対処について何か学べることはあるはずです。
では、幾つかの戦国武将の危機について挙げてみたいと思います。
まずは独眼竜政宗と呼ばれた伊達政宗です。
政宗は、幼い頃に患った病気から片目を失います。
このために母親から疎まれ、後には毒殺まで試みられたという事実は今では疑問視されているようですが、弟の小次郎が内紛から処断され、母親も実家に帰っていることから、家臣団が一枚岩でなかったのは間違いありません。
そのような中にあって、政宗は11歳で元服したとき、父・輝宗から伊達家中興の祖・九代政宗の名を授けられます。
それだけ父親の期待も大きく、実際に父から家督を譲られたのは18歳というまだ若い時期でした。
家督を譲る話が出たとき、政宗は若さを理由に固辞したとも言われていますが、最終的に引き受けているように、そこには父親の期待があったことは想像に難くありません。
そんな恩ある父親を、息子の政宗は19歳のとき、敵もろとも撃ち殺します。
敵に奪われた馬上の父親を、相手もろとも射殺した事件については様々な解釈がありますが、私の見解は、父親ではなく家臣団を選んだになります。
前当主であり、実質的にもまだ家中に大きな影響力を持つ父親が奪われて幽閉されてしまえば、これ以降相手の要求を飲まざるを得なくなります。
騙し騙されといった権謀術数渦巻く戦国時代において、前当主を生かさず殺さずの状態にしてやられたら、明らかにジョーカーを奪われたことに他なりません。
よって政宗は、苦渋の決断で相手もろとも父親を撃ったのだと私は解釈しています。
自分を引き立ててくれた父親を、今この瞬間即座に撃ち殺す決断をしなくてはならず、それを実行した若侍。
ここには、常に死と隣り合わせに生きていた戦国武将の覚悟を見ることができます。
この行為が責められているのは、当時もあったであろう敵の流言飛語であり、政宗は、この若さにして重大な決断ができたのだと私は解釈しています。
鍋島直茂は、元々は龍造寺隆信の家臣であり、中野式部清明は、武士道の「葉隠」で知られる山本常朝の祖父です。
ここで両者の名前を挙げた理由は、敗戦時の逸話が私自身好きなこともありますが、覚悟の題材として最適だからです。
その題材である出来事とは、1584年に九州の島原で起きた、有馬・島津連合軍と龍造寺軍が争った沖田畷(おきたなわて)の戦いにあります。
この戦において、龍造寺軍は大将の龍造寺隆信が討ち取られ、兵士の数で勝っていたものの総崩れとなり、決死の退却を余儀なくされます。
そして隆信の家臣・鍋島直茂も、
「ここで腹を切る」
との場面にまで追い込まれます。
このとき直茂の家臣・中野清明は、供回の者が4、5人しかおらず、小高い丘の上で「最早これまで」の状態でいた直茂を発見します。
そこで腹を切ることを聞かされた清明は、
「こんな所で犬死にとは分別違いだ。いいから早くお逃げ下さい」
と叫びます。
しかし直茂は、名も無い雑兵の手にかかって屍を晒すのは恥辱だと語り、側にいた鍋島主水茂里も介錯を申し出ます。
それを聞いた中野清明は、
「小僧は黙っておれ」
と叱り付け、
「さてさて腰の抜けたことを仰しゃる。我々一人を千人と思って、とにかくそれがしにお任せ下さい」と直茂を諫め、無理矢理先へ押し立てて退却させた。
引用 中野清明一代御奉公之荒増聞書「孫引き 武士道の逆襲 菅野覚明 講談社」
ここには、極限の場面で身を挺する武将と、恥を覚悟で進言を受け入れる武将が存在しており、ここにも戦国の覚悟を見ることができます。
戦国の風雲児・織田信長にも、絶体絶命の危機は何度かありました。
その一つは、妹のお市が嫁いだ浅井長政(あざいながまさ)の裏切りにあう「金ヶ崎(かねがさき)の戦い」です。
越前の朝倉義景(あさくらよしかげ)を攻めている最中、近江の浅井が謀反を起こしたことで挟み撃ちにあい、危機に追い込まれます。
このとき信長は、危険な任務である殿(しんがり)を秀吉ら配下に任せ、遁走して生き延びます。
ここにも恥を忍んで生きながらえた武将と、極限の危機を引き受けた武将が存在し、戦国の覚悟が見ることができます。
信長にとって、番狂わせであった桶狭間の戦いも大きな危機でしたが、大軍を引き連れて攻めてきた今川義元勢を前にして、ジタバタすることなく軍議も行わず、家臣に見放されたと思いきや、その後一気に号令を下し、馬で駆けて行った27歳の若武者の姿にも、運命を引き受けた戦国の覚悟を見ることができます。
そして最後に挙げるのは、長篠の戦いで武田軍に捕われた鳥居強右衛門(とりいすねえもん)です。
長篠の戦いとは、長篠城を包囲した武田勝頼軍と、援軍に向かった織田信長・徳川家康連合軍が争った合戦です。
この戦で、強右衛門は武田の大軍に包囲された長篠城を抜け出し、使者として援軍を求めに岡崎へと向かいます。
そして、その申し出を家康は承諾し、信長も加勢に向かいます。
ただし強右衛門は、援軍が来ることを伝えに長篠城へ戻る途中、敵方に捕らえられます。
このとき武田軍は強右衛門に対し、
「援軍は来ないと城内に向かって叫べば命を助けてやる」
と持ちかけます。
強右衛門はそれに同意し、城の側に引出されます。
しかし、そこで援軍が来ることを大声で叫び、その場で磔にされて殺されてしまいます。
ピンチの姿形は様々で、その対応の仕方もまた様々になりますが、状況に応じてその場を乗り切らなくてはなりません。
後から振り返ると笑い話になっていることも多いですが、事件発生時は脂汗をかいているはずです。
こういったピンチは、用意周到に準備をしていても訪れるものであり、また危機に遭遇したときの対応は、まさに人間性や人間力があらわになります。
もっとも、昨今ではネット上で謂れのない誹謗中傷を受けたり、勝手に名乗られる成り済ましにあったり、さらにそれらがあっという間に拡散して対処に苦慮するようなケースがあるものの、自分が引き起こした危機の対応に失敗したとしても、主に失うのは内外の信用だけです。
そして、もし上手く対応できれば、逆に信用を勝ち得ることさえあります。
一方で、本記事の事例として取り上げる戦国武将の危機は、対応に誤ればそれこそ命取りとなり、生命の危機に直結していました。
そんな命のやり取りをしていた戦国時代の話は、現代人にとって直ちには参考にはならないかもしれませんが、武将も我々と同じ人間であり、その対処について何か学べることはあるはずです。
では、幾つかの戦国武将の危機について挙げてみたいと思います。
2 奥州の覇者・伊達政宗
まずは独眼竜政宗と呼ばれた伊達政宗です。
政宗は、幼い頃に患った病気から片目を失います。
このために母親から疎まれ、後には毒殺まで試みられたという事実は今では疑問視されているようですが、弟の小次郎が内紛から処断され、母親も実家に帰っていることから、家臣団が一枚岩でなかったのは間違いありません。
そのような中にあって、政宗は11歳で元服したとき、父・輝宗から伊達家中興の祖・九代政宗の名を授けられます。
それだけ父親の期待も大きく、実際に父から家督を譲られたのは18歳というまだ若い時期でした。
家督を譲る話が出たとき、政宗は若さを理由に固辞したとも言われていますが、最終的に引き受けているように、そこには父親の期待があったことは想像に難くありません。
そんな恩ある父親を、息子の政宗は19歳のとき、敵もろとも撃ち殺します。
敵に奪われた馬上の父親を、相手もろとも射殺した事件については様々な解釈がありますが、私の見解は、父親ではなく家臣団を選んだになります。
前当主であり、実質的にもまだ家中に大きな影響力を持つ父親が奪われて幽閉されてしまえば、これ以降相手の要求を飲まざるを得なくなります。
騙し騙されといった権謀術数渦巻く戦国時代において、前当主を生かさず殺さずの状態にしてやられたら、明らかにジョーカーを奪われたことに他なりません。
よって政宗は、苦渋の決断で相手もろとも父親を撃ったのだと私は解釈しています。
自分を引き立ててくれた父親を、今この瞬間即座に撃ち殺す決断をしなくてはならず、それを実行した若侍。
ここには、常に死と隣り合わせに生きていた戦国武将の覚悟を見ることができます。
この行為が責められているのは、当時もあったであろう敵の流言飛語であり、政宗は、この若さにして重大な決断ができたのだと私は解釈しています。
3 佐賀藩の藩祖・鍋島直茂と家臣・中野清明
鍋島直茂は、元々は龍造寺隆信の家臣であり、中野式部清明は、武士道の「葉隠」で知られる山本常朝の祖父です。
ここで両者の名前を挙げた理由は、敗戦時の逸話が私自身好きなこともありますが、覚悟の題材として最適だからです。
その題材である出来事とは、1584年に九州の島原で起きた、有馬・島津連合軍と龍造寺軍が争った沖田畷(おきたなわて)の戦いにあります。
この戦において、龍造寺軍は大将の龍造寺隆信が討ち取られ、兵士の数で勝っていたものの総崩れとなり、決死の退却を余儀なくされます。
そして隆信の家臣・鍋島直茂も、
「ここで腹を切る」
との場面にまで追い込まれます。
このとき直茂の家臣・中野清明は、供回の者が4、5人しかおらず、小高い丘の上で「最早これまで」の状態でいた直茂を発見します。
そこで腹を切ることを聞かされた清明は、
「こんな所で犬死にとは分別違いだ。いいから早くお逃げ下さい」
と叫びます。
しかし直茂は、名も無い雑兵の手にかかって屍を晒すのは恥辱だと語り、側にいた鍋島主水茂里も介錯を申し出ます。
それを聞いた中野清明は、
「小僧は黙っておれ」
と叱り付け、
「さてさて腰の抜けたことを仰しゃる。我々一人を千人と思って、とにかくそれがしにお任せ下さい」と直茂を諫め、無理矢理先へ押し立てて退却させた。
引用 中野清明一代御奉公之荒増聞書「孫引き 武士道の逆襲 菅野覚明 講談社」
ここには、極限の場面で身を挺する武将と、恥を覚悟で進言を受け入れる武将が存在しており、ここにも戦国の覚悟を見ることができます。
4 戦国の風雲児・織田信長
戦国の風雲児・織田信長にも、絶体絶命の危機は何度かありました。
その一つは、妹のお市が嫁いだ浅井長政(あざいながまさ)の裏切りにあう「金ヶ崎(かねがさき)の戦い」です。
越前の朝倉義景(あさくらよしかげ)を攻めている最中、近江の浅井が謀反を起こしたことで挟み撃ちにあい、危機に追い込まれます。
このとき信長は、危険な任務である殿(しんがり)を秀吉ら配下に任せ、遁走して生き延びます。
ここにも恥を忍んで生きながらえた武将と、極限の危機を引き受けた武将が存在し、戦国の覚悟が見ることができます。
信長にとって、番狂わせであった桶狭間の戦いも大きな危機でしたが、大軍を引き連れて攻めてきた今川義元勢を前にして、ジタバタすることなく軍議も行わず、家臣に見放されたと思いきや、その後一気に号令を下し、馬で駆けて行った27歳の若武者の姿にも、運命を引き受けた戦国の覚悟を見ることができます。
5 義を貫いた武士・鳥居強右衛門
そして最後に挙げるのは、長篠の戦いで武田軍に捕われた鳥居強右衛門(とりいすねえもん)です。
長篠の戦いとは、長篠城を包囲した武田勝頼軍と、援軍に向かった織田信長・徳川家康連合軍が争った合戦です。
この戦で、強右衛門は武田の大軍に包囲された長篠城を抜け出し、使者として援軍を求めに岡崎へと向かいます。
そして、その申し出を家康は承諾し、信長も加勢に向かいます。
ただし強右衛門は、援軍が来ることを伝えに長篠城へ戻る途中、敵方に捕らえられます。
このとき武田軍は強右衛門に対し、
「援軍は来ないと城内に向かって叫べば命を助けてやる」
と持ちかけます。
強右衛門はそれに同意し、城の側に引出されます。
しかし、そこで援軍が来ることを大声で叫び、その場で磔にされて殺されてしまいます。
もしここで援軍が来ないと叫べば、城内の士気は低下し、城が陥落していた可能性もありました。
そうなれば多くの仲間は捕らえられ、武田方に処断されていたことでしょう。
長篠城はこの後、織田・徳川軍の味方が到着するまで耐え凌ぎ、戦を有利に進めていくこととなります。
つまり、この強右衛門の言葉が城内の士気を奮い立たせ、籠城を持ち堪えさせ、最終的に合戦の勝利にまで導いたのです。
後に信長はこのときの功に報い、長篠城主であった奥平定昌に自身の「信」の字を一字与え、また太刀「銘 一」通称・長篠一文字を授けます。
長篠の合戦時、自らの一命を投げ打って自軍を救った鳥居強右衛門にも、戦国の覚悟を見ることができます。
そうなれば多くの仲間は捕らえられ、武田方に処断されていたことでしょう。
長篠城はこの後、織田・徳川軍の味方が到着するまで耐え凌ぎ、戦を有利に進めていくこととなります。
つまり、この強右衛門の言葉が城内の士気を奮い立たせ、籠城を持ち堪えさせ、最終的に合戦の勝利にまで導いたのです。
後に信長はこのときの功に報い、長篠城主であった奥平定昌に自身の「信」の字を一字与え、また太刀「銘 一」通称・長篠一文字を授けます。
長篠の合戦時、自らの一命を投げ打って自軍を救った鳥居強右衛門にも、戦国の覚悟を見ることができます。
究極の選択を実行すること
極限の場面で身を挺すること
恥を覚悟で進言を受け入れること
潔く退却すること
強大な敵に立ち向かうこと
運命を引き受けること
極限状態でも義を貫くこと
極限状態でも義を貫くこと
今回挙げた事例以外にも、独自の作法で最期を飾った武将が数多くいます。
例えば、切腹が失敗しないよう、その直前に脳天(百会)へお灸を据えたとされる松永久秀や、お市の方の息女三人を秀吉に引き渡しながらも、秀吉本陣に向けて腹を十文字に斬り裂いた柴田勝家などです。
戦国時代とは、そのような覚悟を持った者たちの逸話に事欠きません。
乱世のならいと言ってしまえばそれまでですが、これら危機に直面したときの覚悟を、我々も何かしら学ぶことができるはずです。
危機とは、自分の失敗だけでなく、仲間の裏切りや第三者からの横槍など実に様々です。
特に未熟な若い頃は、若さゆえの過ちや失敗が引き起こす危機は往々にしてあります。
個人でも組織でも、そのときの対処を誤ると、今はSNS全盛時代のため、ネガティブな情報が一気に拡散して炎上してしまいます。
過去には、パンに大きな金属が混入し、その対応が二転三転して大きな批判を浴びた事案。
乳製品による集団食中毒が発生したにも関わらず、「私は寝てないんだよ」と社長が叫び、世間から大バッシングを浴びることで、最終的に大幅な事業再編に追い込まれた事案。
焼肉店で提供されたユッケにより、最終的に6歳の子供2人を含め、5人が命を落としたにも関わらず、逆ギレの会見をした社長。なおこのユッケは、卸売業者も店側も、細菌を処理するトリミングをしておらず、さらには生食用の肉ではないものを提供していました。
このような事案が発生した時、どのように対処するかセオリーはあれど、絶対的な正解はありません。
上記の例は、そのセオリーだけでなく、何か大事なものが欠落していたのかもしれませんが、危機に対する心備えと覚悟だけは、戦国武将に学んでおきたいものです。
上記の例は、そのセオリーだけでなく、何か大事なものが欠落していたのかもしれませんが、危機に対する心備えと覚悟だけは、戦国武将に学んでおきたいものです。
参考文献
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