2019/04/29

幼少期の英語教育はいつから実施するべきなのか? それとも必要ないのか?



コンヤさんによるイラストACからのイラスト



英語が世界共通語であるとの認識は、もはや揺るぎないものとなっています。

さらにグローバル化が進む昨今とくれば、子供たちは遅かれ早かれ英語と向き合うこととなります。

いま子供たちが遊ぶスマホゲームの制作国を見れば分かるように、その多くが外国製となっており、英語が頻繁に飛び交っています。

任天堂・セガ・ハドソン・ソニーといった会社が世界のゲーム市場を席巻していた時代とは一変し、ゲームにおけるハードがスマホやタブレットに比重を移しており、子供たちはネットの接続を介して容易に世界と繋がっている状況です。

一頃前は、外国人の上司が赴任してくるだけで話題となりましたが、そのようなことは最早珍しいことではなく、職場での使用言語を英語に変えるユニクロや楽天のような会社も登場し、経済界も英語が話せる社員の育成を公教育に要請しているようです。

国もそんな状況を鑑みてか、初等教育における英語の授業を本格化させており、それに合わせ、自身の子供への英語教育を切実な問題として捉えている親御さんも多いことでしょう。

私も子供が幼稚園に入るとき、英語で保育するキンダーガーデンを真剣に考えました。

その理由は、強烈な原体験があったからです。

若い頃、海外旅行へと一人で行き、旅先で同じく一人旅をしていたワスプのアメリカ人とステファラディのイスラエル人と意気投合し、一緒に行動することとなりました。

ただし、私も一般の日本人と同じように、学校で何年も英語を勉強しているにも関わらず、話すことはもちろん聞き取ることも覚束ない状態であり、ネイティブのアメリカンイングリッシュがまったくと言っていいほど理解できませんでした。

しかし、ある程度の旅行経験があったため、イスラエル人のブロークンでゆっくりな英語は理解でき、どうにか意思の疎通を図ることは可能で、三人で様々な場所へ出かけました。

もちろんアメリカ人の話す英語はほぼ理解できないので、不明な部分をイスラエル人に説明してもらう形で、つまりネイティブの英語をブロークンな英語に通訳してもらうような奇妙な状況での交友となりましたが、世界の共通語である音楽のHIPHOPやスポーツのサーフィンに関する話で盛り上がったため、曲がりなりにも会話は成立していました。

しかし、事件はあるところで起きました。

三人でバス停でバスを待っていたとき、アメリカ人が何かの言葉を発しました。

私には毎度のように僅かにしか理解できませんでしたが、イスラエル人が次のように言葉を返したのです。


American joke is not funny!


そして、二人はお互いの肩を叩きながら笑い合っていました。

そのとき私は、二人の輪の中に入れませんでした。

アメリカンジョークが世界で面白くないと言われていることは、私も知識としては持っていました。

具体的な文言や内容を知っていたわけではありませんが、奥ゆかしさがない、ストレートすぎるといった意味での理解だけはありました。

二人はその事を踏まえた上で笑い合っていたのですが、私はそのアメリカ人が放った肝心のジョークが分からず、二人から取り残されてしまいました。

正直居た堪れない気持ちになり、常夏の島で、私の周りだけ冷たい空気が流れていました。

このような原体験があったため、自分の子供にはこのような惨めな思いをして欲しくないと考え、小学校入学前から本格的な英語教育を施してあげるべきとの思いに至りました。

しかし、多くの識者が危惧しているように、たとえ英語が話せたとしても、内容である中身が重要であり、その中身は母語の思考力や語彙力に立脚するため、基本となる母国語を何よりも重視すべきであるとの声が多く聞かれるのは事実です。

それらを考慮した結果、やはりキンダーガーデンはやめることに決めました。

もちろん、英語をネイティブ並みに扱うには、幼少期から習ったほうがいいのは間違いないですが、ペラペラになるまでの必要性を考慮すると、やはり日本語を疎かにするべきではないとの考えに至りました。

英語も日本語と同じように学び、両方とも高度に扱えればそれに越したことはないですが、どっちつかずになり、どちらも中途半端な習得で終わってしまう可能性もあります。

作家・城山三郎さんが描いた商社マンが主人公の小説、


毎日が日曜日(新潮文庫)


では、そのことで苦労する子供が描かれています。

タレントの滝沢カレンさんのように、苦手である自分の日本語を笑い飛ばせればいいですが、人知れず苦しんでいる人もおり、自身のアイデンティティの問題にまで発展しているケースもあるでしょう。

いま日本における英語教育は、小学校の低学年での授業どころか、幼稚園や保育園でもアルファベッドを教えている状況です。

私の息子は、ひらがなもまともに読み書きできない時期に、外国人のお友達がいるわけでもないのに、自発的に学びたいと言い出したわけでもないのに、子供には難しい英単語を口にしていました。

もちろん、子どもたちが遊びながら楽しく学んでいるのであれば良いことだと思いますし、また他言語を学ぶことは素晴らしいことであり、他者を理解したり、その学びが自分を刺激したり、何かの学びに発展することもあり、そもそも日本には横文字や和製英語が溢れているように、異文化を上手に取り込んできた歴史があるものの、幼少期の母国語習得を犠牲にしてまで学ぶべきかは疑問であり、覚えなければならない漢字も山ほどあります。

このまま今の方針が日本で続けば、将来的に国民の国語力が低下し、それに伴って国力すらも低下する可能性が大いにあるでしょう。

英語教育で重要なのは、学習を低学年化することではなく、アウトプットを増やすことであり、それも教科書を読ませるだけで終わってしまう授業ではなく、日本人の生徒同士でも日本語を一切使わせず、英語だけで会話をやり取りする授業を、中高で頻繁に行なうべきでしょう。

そして、大抵の会話は中学校で習った英語で充分対応できるので、海外旅行などで使う機会があれば、積極的にアウトプットをしていくべきです。

いま、高性能の音声翻訳が登場しています。

Googleアシスタントの「通訳モード」は、「OK Google 私の翻訳者になって」と語りかけると、即座にインストールされたGoogle翻訳が起動して、音声通訳機として対応してくれます。

AI翻訳機の、POCKETALK (ポケトーク)、音声で入力した自分の日本語を瞬時に英語の音声に変換してくれます。

当時アメリカ人と話をしていて理解できなかった「ポキモン」という単語も、「ポケモン」と音声入力すれば、両方とも確実に出力してくれます。

特にこのソースネクストのポケトークは、英語だけでもイギリス英語・アメリカ英語・インド英語・オーストラリア英語と4種類の言語に対応している優れもので、ここでも重要になってくるのは入力する日本語の能力です。

このような技術革新が進んでいけば、これからますます英語教育の重要度が低下していくのは明らかです。

ただし、機械を通して意思疎通を図るのは間接的であり、できることなら直に会話し、相手と深く交流したいものです。

そのためには、日本人なら誰しも学んできた中学英語をもう一度勉強し直し、芸人の厚切りジェイソンさんに、


WHY  JAPANESE  PEOPLE!?  どうして日本人は何年も英語を勉強していて、ほとんど話せないの?


と私も含めて言われないようにしたいものです。

先日、トヨタの社長・豊田章男氏のバブソン大学での卒業スピーチを観ましたが、大学院できちんと勉強してきた人は、幼少期に海外経験がほとんどなくとも、聴衆を巻き込み、間さえも上手に活用したうえで、原稿を見ない英語のスピーチができるものなんですね。

私を含め、英語コンプレックスを持つ世のお父さんお母さん方は、これで一安心という訳にはいきませんが、子供の英語教育をそこまで恐れる必要はないと思わせてくれた豊田氏のスピーチは、見ておいて損はないかもしれません。

結論として、幼少期の英語教育をいつから実施すべきかについては、どこまで話せるかといった最終的な目標や、留学を経験するかしないかなどが関連してくるとは思いますが、まったく海外経験のない政治家の小泉進次郎氏が、日本の大学を卒業後に名門コロンビア大学の大学院に入学し、卒業できるだけのレベルの英語を身に付けられるのですから、0歳といった早期から開始する必要はないと個人的には思います。

もちろん両親が違う言語を話す家庭もあるとは思いますが、日本で日本人として生きていくのであれば、幼少期は母語である日本語を磨くべきでしょう。



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