その理由は、
大きな夢を持つことの大切さ
努力をすることの大切さ
困難を乗り越える方法
などを学べるからです。
そのエピソードは嘘だ
その性格は美化されている
そして、世の中なんて所詮夢も希望もない、とがっかりした人がいるかもしれません。
大きな夢を持つことの大切さ
努力をすることの大切さ
困難を乗り越える方法
などを学べるからです。
しかし、大概の自伝や伝記には何らかの誇張や嘘が混ざっており、後世に伝わる偉人像とは、必ずしも当人を正確には表していないようです。
ただ、それらを読む子供に対し、横槍を入れてはならないでしょう。
実はそんな業績を挙げていない
このような台詞は野暮の極みであり、するべきではないかもしれません。
なぜならその嘘や誇張が、子供の心に火を付けることがあるからです。
16世紀フランスの作家・フランソワ・ラブレーはこう言いました。
三つの真実にまさる 一つのきれいな嘘を
綺麗な嘘だからこそ感銘を与え、心に火を灯すことがあるのです。
偉人が抱いた動機や、胸に秘めていた壮大な夢や、成し遂げた偉業に、心を躍らせた少年少女が大勢いるはずです。
偉人が抱いた動機や、胸に秘めていた壮大な夢や、成し遂げた偉業に、心を躍らせた少年少女が大勢いるはずです。
しかし大人になってから真実を知り、落胆する場合もあるでしょう。
あのときの感動は何だったのか?
あのときの感動は何だったのか?
ふざけるな!
お前の伝記を読んで興奮した俺は馬鹿じゃないか
あの感動を返せ!
と嘆く人がいるかもしれません。
そして、世の中なんて所詮夢も希望もない、とがっかりした人がいるかもしれません。
もしかしたら、自分が美化したイメージが壊れるのを恐れ、真実から目を背ける人がいるかもしれません。
ここにもう一つの言葉があります。
ここにもう一つの言葉があります。
来てみれば 聞くより低し富士の山 釈迦や孔子もかくやあるらん
この句は、長州藩士・村田清風が残したものとされ、伝説や伝記が誇張して流布されていく状況を端的に表しているかもしれませんが、ここから派生した別の句があります。
来てみれば さほどでもなし富士の山 釈迦や孔子もかくやあるらん
この句が実際に清風の詠んだものとも、よみ人知らずとも言われていますが、では、江戸時代の若者が発した言葉であると想定し、話を進めていきます。
若者は周囲の人や本などから富士山の素晴らしさを吹き込まれていたのでしょう。
期待が大きければ大きいほど、裏切られたときの落胆も大きくなりますが、若者は実物の富士山を見て、予想外れだと感じました。
一般的に語られる富士山の美は、曲線のシンメトリー(左右対称)や、雄大に流れる裾野や、雪化粧などのようですが、作者はもしかしたら違う角度から観たのかもしれませんし、一部が雲で覆われていたのかもしれません。
また、空が澱んでいたのかもしれませんし、本人の体調が優れなかったのかもしれませんが、この句の作者が富士山に魅力を感じなかったことは確かです。
ではこのときの作者の心境を考えてみます。
「凄いと言われていた富士山がこれだから、釈迦や孔子も言われているほど大したことはなく、普段学んでいる仏教や儒教の教えもあまり意味がない」
「凄いと言われていた富士山がこれだから、釈迦や孔子も言われているほど大したことはなく、普段学んでいる仏教や儒教の教えもあまり意味がない」
「尊敬の念を持っていた釈迦や孔子のイメージが崩れて残念だ」
「人の言うことは当てにならず、信じるのはやめよう」
このようなマイナスの捉え方をしたかもしれませんが、次のように考えた可能性もあります。
「人の言うことは当てにならず、自分の目で確かめることが大事であり、釈迦や孔子についても、できることなら原典に当たり、自分の頭で考えることが大事である」
「実在の釈迦や孔子が大した人物でないならば、同じ人間である自分もそのような偉人になれる可能性がある」
このように、起きた出来事をプラスに転換していけばよいと思われます。
「自分の目で見て確かめる」
「偉人も同じ人間である」
この認識は非常に大切であり、特に二点目は、社会の荒波に揉まれ、希望を失っている大人にこそ必要です。
画家の岡本太郎さんは、法隆寺金堂の壁画が火災で焼失し、当時の関係者が慌てふためいていたときのことを回想し、次のように言い放ちました。
法隆寺は焼けてけっこう。自分が法隆寺になればよいのです
たとえハッタリでも、惚れ惚れする言葉です。
後世に伝わる自伝や伝記などは、誰かが都合よく改ざんしている場合が多いのは確かでしょう。
本人による場合であれば、見栄、強がり、功名心、話のはずみや勢い、リップサービス、記憶違いなどだと思われ、他にも、周囲の人間の意向や、商売のためや、偉人を利用する権力者の思惑などもあると思いますが、大概の偉人伝には嘘や誇張が随所に盛り込まれているようです。
それ故、無垢な子供たちを騙していることも確かです。
しかし、綺麗な嘘だからこそ感応し、夢を膨らませることがあります。
そのため、構うことなくじゃんじゃん嘘だらけの偉人伝を子供たちに読ませましょう。
そのため、構うことなくじゃんじゃん嘘だらけの偉人伝を子供たちに読ませましょう。
もし偉業のロマンにときめいて成長し、その後に真実を知って落胆したときは、本人による誇張や嘘であれば、その誇張や嘘を人間臭さだと教えてあげればよいのです。
本人以外の理由による誇張や嘘であれば、時代の要請の中で、その姿形が作られてきたことを教えてあげればよいのです。
そして、本当の歴史や改竄がなされた理由など、その裏を考察できる大人になれるよう促していくべきだと思います。
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