2017/09/05

人生の目的を進化生物学的な観点から捉えると、それは「挑戦」という行為になるのかもしれません




はやぶさの最期
NASA/Ames Research Center


人生に目的など要らない、と言う人がいます。

自らの欲望の赴くまま、好きなことをして生きていけば良いとする考えや、生きてるだけで丸儲けという言葉のように、特別なことを求めず、つつがなく暮らしていけば良いとする考えがあります。

これらの意見は、物理学者のシュレーディンガーが唱えた、生物の条件である代謝だけをしているとも言えます。

代謝とは、外界から体内に物質を取り込み、合成や分解によって新たな物質やエネルギーを作り出し、生命を維持するための一連の動作のことであり、人間は呼吸や食物の摂取を通して行っています。

このように、ただ生きているだけでいい、それが人生の目的であるとする考えがあります。


他には、生命のもう1つの条件である自己複製、つまり、自分の遺伝子を次世代に繋ぐことが目的である、とする人もいます。

理由は解明されていませんが、自身の遺伝情報を後世に残すことは、生物に課せられた至上命令であり、人間にとっても、異性との恋愛、結婚、性行為は人生の一大テーマとなっており、我々はパートナーの獲得に奮闘します。

このとき、どちらの性が配偶相手を巡って争うかは、潜在的繁殖速度の違いによって説明されます。

潜在的繁殖速度とは、一回の繁殖から次の繁殖に移行するまでの時間のことで、簡単に言うと、卵子や精子の生殖細胞を製造するところから始まり、子供の世話を経て、手が離れるまでの期間のことで、この期間が短い方の性が、速く次の繁殖に取り掛かれるため、実質的に繁殖を望む数が多くなり、もう片方の性を巡って闘争することになります。

そのため、雌同士が雄を巡って争う生物もいますが、人間は精子よりも卵子が高コストで製造に時間がかかり、妊娠、出産、授乳は哺乳類であるために女性が行い、子育ても出産した女性が中心に行うため、繁殖に必要な期間は女性の方が長くなります。

人間は社会的な動物のため、純粋に生物学的な観点で量ることはできませんが、異性の獲得に関しては男性同士が争っているようです。

その争いを、激しい肉体的な闘争で行う場合は、雄と雌の著しい体格差に現れてきます。


この雌雄の違いを性的二型と言い、ゾウアザラシの雄は、一夫多妻の一大ハーレムを築くため、雌の約7倍もの大きな身体を持っています。

現代の人間では、男性が女性より1,2割ほど大きいだけで、極端な体格差がないため、雄間競争は緩やかであると考えられています。

人間の雄間競争が何によるかは議論が別れ、容姿、体格、健康、話術、知性、活力、性格など様々で、フェロモンが関係すると唱える学者も存在し、多くの実験がされています。

その中で注目が集まるのは、富や地位を巡る競争です。

女性が男性を選ぶ際に、富や地位がなぜ指標になるのかは、将来にわたって子孫を繋ぐため、健康で優秀な遺伝子を持つ子供を求めるとすれば、稼げる男性や地位の高い男性は稀少であり、優れた遺伝形質が現れていると考えられるからです。

さらに貨幣経済における富は、女性自身の代謝に必要な食糧の確保にも繋がり、子供への様々な投資も充実させることができ、また
大抵の組織では地位の高さと給与が比例します。

これらを考慮すると、男性がお金を稼ぐことや地位の獲得に注力するのは、女性を手に入れるためであり、男性自身の代謝のためでもあり、自分の遺伝子を受け継ぐ子のためでもあり、富や地位の獲得を人生の目的と捉えることは、生物学的な観点から一理あると言えます。


このように生殖のため、お金を稼ぎ、自分の子供を産み育て、子孫を繋いでいくことが人生の目的である、とする考えもあります。

しかし、ヒトは他の生物にはない複雑な心が存在しますので、その点から考察してみたいと思います。

人間が今際の際(いまわのきわ)で想うことは色々あるそうですが、特に後悔が頭をよぎると言われています。

その中でも、何かをした後悔よりも、しなかった後悔が死に臨んで大きく膨らむと言われます。

ニーチェの永劫回帰ではないですが、死の床で、


「あなたは今まで歩んできた人生を、生まれ変わっても再び歩みたいですか?」


と問われ、イエスと答えられる人は殆どいないかもしれません。

話は全く変わりますが、「スラムダンク」という日本でも指折りのスポーツ漫画があります。

私はリアルタイムで少年ジャンプを読んでいた世代ですので当然知っていますが、若者に聞いても皆が知っている有名な漫画です。

その中に、広く共感を持って受け入れられているセリフがあります。

それは、



「あきらめたら そこで試合終了ですよ…?」



引用 スラムダンク 井上雄彦 集英社


という、バスケ部の顧問である安西先生が放つ言葉です。

少し唐突な引用ですが、この言葉を、先ほどの何かをしなかった後悔と照らし合わせると、挑戦という言葉が1つのキーワードとして浮かび上がります。

日本が世界に誇れる人物に、登山家の植村直己氏がいます。

彼の最期は冬季のマッキンリーで、見方によっては、ただ危険な場所に勝手に出掛けて行き、命を落としただけだと捉えることもできますが、人々は彼の生涯を誉め称えました。

イギリスの数学者であるアンドリュー・ワイルズ氏は、永遠の謎と言われ、数々の天才を退けてきたフェルマーの最終定理を証明するために、自身の人生を賭けました。

本田宗一郎氏は、HONDAがまだ小さな町工場に過ぎなかった頃、ミカン箱の上に乗り、世界に名だたる企業にするんだと社員に激を飛ばしていました。

我々は、彼らの挑戦する気概に心を打たれます。


フロンティアを開拓した冒険者

新たな真理を発見するために日々研究する科学者

商品やサービスを世に問おうとする起業家

全身全霊を賭して作品を創り上げる芸術家

新たな発明を生み出すために日々研鑽する発明家


彼らが人々に称賛されるのは、世の中に役立つかよりも、挑んでいる姿によるものです。

そして、これらの行為の大半が、他者からの承認や自己顕示を超えたところにある、自己の内なる欲求に基づく、純粋な挑戦です。

この挑戦の二文字を進化の過程から眺めると、幾つかのことが浮かび上がります。

人間を他の生物と同列に見なしたり、他の生物を擬人化することは危ういとする考えもありますが、人間特有の複雑な心も、動物に様々な感情があることから分かるように、進化の産物であることは紛れもない事実です。


植物にも感情があるとする研究結果や、ゾウリムシのような単細胞生物すらも、刺激に反応するのはもちろんのこと学習までも行うことが知られており、過去に誕生したすべての生物に、人間の心の元となるものが内在していたと考えるほうが自然です。

そして、種が分化するような大きな進化は、環境の悪化や、辺境に追いやられた場合など、新たな環境に直面し、変わる必要に迫られた種によって引き起こされています。

つまり、進化には目的などなく、たまたま外部環境に適応する突然変異が起き、それが繰り返されてきただけだとする説は誤りで、現状では生き延びることができないと判断した個体が、自己変容を決意し、挑戦を敢行した結果、新たな種が誕生したと捉えることはできないでしょうか。

植物の中には、食虫植物と呼ばれる虫を食べる一群が存在します。




ハエトリ草

ラッキーエースさんによる写真ACからの写真 


これらの食虫植物は、光合成によってもエネルギーを作り出しますが、生育環境には痩せた土地が多く、窒素等の養分を他で確保する必要がありました。

そのことによって、虫を捕獲するような形態に変化したと考えると、やはりそこには、決意のような意志が存在していたと考えるのが自然です。

各種の昆虫が、自分の姿を木の幹や葉の模様に似せたり威嚇模様を身に着けたり、危険な昆虫であるハチに似せたりと、捕食者の目から逃れる何かに偽装する擬態も、単なる偶然では説明が付きません。

類人猿からヒトへの進化も、サバンナ説を採るにしろ、水辺で生活していたとするアクア説を採るにしろ、餌の豊富な熱帯雨林を放棄せざるを得ない理由があったからだと考えられます。

現在は破綻したとされるサバンナ説の一種である「イースト・サイド・ストーリー」は、地球の地殻変動で大地溝帯という深い溝が生起し、その東側にヒトの祖先が取り残され、徐々に乾燥化していく東の大地から西の森に戻ることができず、サバンナに適応しなくてはならなかったとしています。

エレイン・モーガンが主張するアクア説は、こちらも地球の地殻変動により、エチオピアのアファール三角地帯と呼ばれる場所に海水が流れ込み、孤島となった場所に取り残されたヒトの祖先が、海辺に適応する必要に迫られたとしています。

仮に、ニッチであったサバンナや水辺に進出したことによる、新たな環境への適応だったとしても、餌の豊富な熱帯雨林から移動せざるを得ない、例えばメインの集団から追い出された個体や集団であったはずです。

つまり人間も、環境の変化により、現状では生き延びることができないと判断した個体が自己変容を決意し、挑戦を敢行した結果、新たな種が誕生したと捉えることはできないでしょうか。

その変化に至るまでの過程には、人間のチャレンジと同じように試行錯誤が繰り返され、累累たる失敗や屍が築かれたことでしょう。

このように、進化の歴史から人間を巨視的に捉えると、挑戦という行為が浮上してきます。

代謝をし、ホメオスタシスを図り、自己保存のために生き、自己複製により子をもうける。


この生物の営みだけでは満足せず、生きている意味を見いだそうとする人間にとっての人生の目的とは、何かに挑戦することではないでしょうか。

2010年6月、小惑星探査機「はやぶさ」が、7年もの期間と60億キロもの距離の旅路を終え、地球に帰還する場面は、多くの人々の注目を集めました。

途中の行程で起きた燃料漏れ、エンジン停止、音信不通といった危機を乗り越え、小惑星「イトカワ」の貴重なサンプルが入ったカプセルを地球に託し、はやぶさの本体は、大気圏への再突入によって、流れ星のように尾を引きながら煌びやかに燃え尽き、6月の夜空に消えていきました。



はやぶさの最期(右下の小さく光る点がカプセルです)
NASA/Ames Research Center




この姿に、人々は感動を与えられました。

そこにあるのは、愚直なまでに使命を完遂しようとする姿と、諦めずに挑戦する姿です。

過酷で、孤独な挑戦の果てに、自らの命を閉じたその姿に心を動かされるのは、我々のうちに、命を焦がすほどの挑戦を希求する想いがあるからに他なりません。

我々人間にとって人生の目的とは、どんな小さなものでも構わない、結果の如何すらも問わない、挑戦する行為そのものであるとは言えないでしょうか。

過去の生物たちは、環境が変化したために進化を余儀なくされ、人間も同じように追い詰められたとき、現状を打開する挑戦が求められます。

しかし、ホモ・サピエンスは、過去の生物や初期のヒトとは違い、窮地に陥ったからではなく、自ら進んで挑戦を選びとることができる、唯一の生き物なのではないでしょうか?



紹介図書


参考文献


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