2018/04/09

成功とは何かを真剣に考えてみます




多数のアメリカ100ドル紙幣が舞っている

3D Animation Production CompanyによるPixabayからの画像 




誰しも成功を望んで生きているはずですが、そもそも、成功とは一体何でしょうか?

お金・地位・名誉の獲得でしょうか?

それとも、人々から羨望の眼差しを集めるカリスマやインフルエンサーになることでしょうか?

そうではなく、成功とは、自分の好きな事を見つけ、それを努力して磨き、その能力を社会に還元し、そのことに喜びを感じることだと私は思います。

この回答が、社会的な動物である人間にとって一つの解だと考えていますが、別の側面から検証してみます。

幕末の志士・吉田松陰は、まだ何も成し遂げていない己の死を前にして、それは惜しむべき事ではないと以下のように書き遺しました。


吾れ行年三十、一事成ることなくして死して禾稼の未だ秀でず実らざるに似たれば惜しむべきに似たり。然れども義卿の身を以て云へば、是れ亦秀実の時なり、何ぞ必ずしも哀しまん


現代語訳 


私は三十歳で生を終わろうとしている。いまだ一つも成し遂げることがなく、このまま死ぬのは、これまでの働きによって育てた穀物が花を咲かせず、実をつけなかったに似ているから惜しむべきかもしれない。だが、私自身について考えれば、やはり花咲き実りを迎えたときなのである


引用文献 吉田松陰 留魂録 古川薫 講談社学術文庫


松陰はこの文に続けて、


私の真心を憐れみ、受け継いでくれる人がいるならば、それは蒔かれた種が実り、収穫があったと言えるだろう。同志たちはこのことをよく考えて欲しい


と記しました。

実際その言葉の通り、松陰の死が弟子たちの奮起を促し、歴史に大きなうねりをもたらしました。

よって松陰としては、松下村塾で教えを説いた弟子たちが活躍し、外患に屈していた幕府が倒れ、社会に変革が巻き起こり、それをあの世で喜んでいたならば、一応の成功者と言えるのかも知れません。

では史実とは違い、もし官軍が負けていれば、松陰の死は失敗だったのでしょうか?

また、もし弟子たちが松陰の死に感化されなかったとしたら、松陰の死は失敗になるのでしょうか?

さらには、最終的な明治新政府が、世界を股に掛ける狡猾なディープステートに半ば乗っ取られてしまったからといって、これも松陰の死が失敗したことになるのでしょうか?

そうではないのです。

もし、人間が自己保存だけを求めるならば、いつの時代でも、時の政権や権力者に擦り寄ることが最適解となります。

しかし、その権力者が明らかに間違った施策をしていれば、その迎合に後ろめたさを感じるはずです。

なぜなら人間の本性は、溺れている人を見かけたら助けようとするように、新品の洋服を泥水に浸けて喜ぶ人がいないように、基本的に善だからです。

潔白な松陰は、最終的に幕府へ激しく異を唱え、自分の考える善を正直に貫きました。

人間は社会的な動物であり、日常には多くのしがらみが存在し、無条件に己を突っ張ることはできません。

麻雀をする人なら分かりますが、自分が上がるため、何でもかんでも危険な牌を切っていけば必ず放銃してしまい、最後は飛んでしまいます。

実際に松陰は突っ張った挙句、斬首が待ち受けていました。

幕末といった激動期だけでなく、現代でも無条件に己を貫けば、敵ばかり増え、爪弾きに遭い、飯の食い上げとなったり、社会的に抹殺されたり、最悪の場合は命まで取られてしまいます。

小泉・安倍政権下で起きた数々の不審死を顧みれば、建前は法治国家の日本でも、例外ではないことが分かります。

よって、社会は現状の力関係の中で予定調和を作り出し、何となくナアナアとやっていきます。

誰しもが表と裏の顔を使い分け、おかしいと思いつつも割り切って生きていきます。

権力者の腰巾着などは、ときに汚れ仕事を押し付けられたりもします。

しかし、それは自分が生き延びるための方策でしかなく、人間の本性である善からは隔たりがあります。

作家の山本周五郎は、人間が持つ善の一面を、「日日平安」の中で描きました。

この作品は、黒澤明監督が映画化した「椿三十郎」の原作として知られていますが、映画と小説は主題が違います。

小説の物語は、道を往く若侍が声を掛けられ、振り返って見ると、道端に一人の男が座っており、着物の衿を広げて胸と腹を出している奇妙な場面から始まります。

その端座する主人公の浪人は、切腹の介錯をお願いすると言いながら、金の無心を始める滑稽な話として進んでいきます。

そして、この主人公の浪人・菅田平野は、引き止めた若侍・井坂十太郎の人の良さに付け込み、井坂の藩が抱える御家騒動に介入し、助太刀をすることであわよくば金や仕官を得ようと目論見ます。

菅田は口八丁手八丁で作戦を遂行し、自分に責任が及ばないよう上手く取り計らいながら、中心となって首尾よく御家騒動を解決します。

これにより、当初の思惑通りその功に与る可能性が出てくるのですが、菅田は声が掛かることを待たず、その場から去って領地から出ていってしまうのです。

本人は道を歩きながら、お前は何をやっているんだと自問自答します。

激しい空腹に襲われつつ、自分の行為を虚栄や偽善かもしれないと疑いながらも、高邁で清清(すがすが)しい感情に包まれます。

結局、最後は馬で駆けつけてきた井坂に登用を持ちかけられ、物語は円満に終わりますが、読者はこれを読んだとき爽やかな風を感じます。

このように、利害や打算を超えた行為に、人間の本質があると私は思いたい。

こういうことをする人物は扱い辛く、特に組織の中では日の目を見ることはあまりなく、平時であればなおさらです。

ここに一つの言葉があります。


天知る 地知る 我知る 子知る

てんしる ちしる われしる ししる


出典は後漢書・楊震伝であり、言葉の意味は、


不正や隠し事は、天地の神々や私も貴方も知っており、いつかは露見してしまう


という戒めですが、自身の信じる善を、何の打算もなく貫いた松陰の気高い精神は、天も地も松陰自身も、最期に立ち会った奉行所同心の吉本平三郎も知っています。

また、首斬り役を務めた7代目山田浅右衛門吉利は、松陰の一糸乱れぬ堂々たる最期の態度に感嘆し、その様子を後世に語り継いでいます。

しかし、天地の神々も他の誰もが一切知らなくても、己だけが知っていればそれで充分だと私は思いたい。

自分が正直に善を貫いたことを、自分一人さえ首肯すれば、それでいいのではないでしょうか。

同じく幕末の薩摩藩士・西郷隆盛が残した有名な言葉に、


命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るもの也


から始まるものがあります。

このような人は始末に困るが、このような人でなければ、困難を共にして国家の大業を成し遂げることはできない、と西郷隆盛は述べていますが、危険を引き受け、名声も求めず、地位やお金が手元に残らなくとも、自分自身に、自分が自分であることを証明するだけで構わない、そういった人たちが幕末の日本に存在していたことは確かです。

社会的な動物である人間にとっての成功とは、自分の好きな事を見つけ、それを努力して磨き、その能力を社会に還元し、そのことに喜びを感じることだと思いますが、もう一方で、自分が自分であることを自分自身に証明すること、そんな成功があってもいいのではないでしょうか。



参考文献

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